ロン・メイルとは? わかりやすく解説

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ロン・メイル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 10:22 UTC 版)

ロン・メイル
原語名 Ronald David Mael
生誕 (1945-08-12) 1945年8月12日(79歳)
出身地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス郡 パシフィック・パリセイズ
職業 キーボーディスト、ソングライター
担当楽器 キーボード
活動期間 1968年 - 2025年現在
共同作業者 スパークス
公式サイト www.allsparks.com

ロン・メイルRon Mael1945年8月12日 - )はアメリカ合衆国出身のロックミュージシャン。弟のラッセルと共に、50年以上にわたってスパークスのメンバーとして活動を続けている。

来歴

生い立ち

本名ロナルド・デヴィッド・メイル(: Ronald David Mael)。カリフォルニア州ロサンゼルス郡カルバーシティ生まれ。3歳年下のラッセル(本名ラッセル・クレイグ・メイル、: Russell Craig Mael)は1948年10月5日に同郡サンタモニカで生まれた。兄弟はロサンゼルス近郊にある同郡パシフィック・パリセイズ[注釈 1]の裕福で主に住宅地となっている地域で育った[1]

1954年には、彼らがカルバーシティで開かれた第4回Fiesta La Ballona祭[注釈 2]ネイティブ・アメリカンの衣装を着ている姿が新聞に掲載された[2]。彼らが呼ぶところの「典型的なハリウッド・ママ」だった母親[注釈 3]に商品カタログ[注釈 4]のモデルをやらされたこともあった。

ロンは6歳から9歳まで先生についてピアノを習った。画家で『ハリウッド・シチズン』紙のグラフィック・デザイナーだった父親は映画やポピュラー音楽の熱心な愛好家で、息子達にエルビス・プレスリーの「ハウンドドッグ」、リトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」、ジェリー・リー・ルイスの「ブレスレス」などのレコードを買い与えた[3]。しかし1957年2月、ロンが11歳の時、彼は40歳で急死した[4]。夫を失った母親は「おそらく芸術家と結婚していたがゆえに、自分達がミュージシャンになりたがっていたことをある程度理解していたようで」、息子達に音楽を聴かせるだけでなく、彼らを数えきれないくらいの映画に連れて行って楽しませた。彼女は女手一つで息子達を大学に行かせようと懸命に働き、やがて再婚してパシフィック・パリセイズで雑貨屋を営んだ。

1964年2月、兄弟はエド・サリヴァン・ショーに出演したビートルズを観た。そして同年8月20日にラスベガス・コンベンション・センター、翌年にはハリウッド・ボウルで彼らのコンサートを体験した[5]。他にはラジオから流れるモータウンの音楽を聴き、エド・サリヴァン・ショーでスプリームスを観、ロックン・ロールからサーフ・ミュージックに至るまでのシングル・レコードを買い集めた[注釈 5]。彼らはビーチ・ボーイズの愛聴者ではあったが、もっぱらイギリスの音楽に影響を受けた。彼らの「イギリスびいきの嗜好」(Anglophile tastes)は、マージー・ビートに取って代わったサイケデリック・ロックの影響を受けたモッド・ポップに広がっていった。ヤードバーズの「幻の10年」(1966年)、ザ・フーの「いれずみ」(1967年)、キンクスの「ウォータールー・サンセット」(1967年)などがお気に入りだった[6]

1964年、ロンはパリセイズ高校からカリフォルニア大学ロサンぜルス校(UCLA)に進学してグラフィック・デザインを専攻[4]。1966年にはラッセルもUCLAに進学して、舞台美術と映画製作を専攻した[4]

初期の活動

兄弟はロンのUCLAでの親友フレッド・フランク(Fred Frank[7][8]、ギター)、フランクの夫人ロナ・メイヤー(Ronna Meyer[7][9]、バック・ボーカル、ピアノ)とアーバン・リニューアル・プロジェクトUrban Renewal Project[10]を結成して[11]、1967年1月に「コンピューター・ガール」(Computer Girl)など4曲を録音してアセテート盤[12]を制作した。「コンピューター・ガール」はラッセルが作詞、ロンが作曲した曲で、のちにスパークスの編集アルバム"Past Tense (The Best Of Sparks)"(2019年)に収録された[13]

ハーフネルソン結成からスパークスへ

ロンはスパークスの楽曲の殆どを作詞作曲してきた。ステージでは、派手なアクションを取りながら歌うラッセルとは対照的に、無表情でキーボード[注釈 6][14]を弾く。一方、1976年にアルバム『ビッグ・ビート』発表後に行なったツアーでは、ピアノの椅子を叩き壊した[注釈 7][15]

ディスコグラフィ

スパークス

その他

脚注

注釈

  1. ^ 2025年の大火で壊滅的な被害を生じた。
  2. ^ この地域の初期の定住者たちを称える祭りで、人々はカウボーイやネイティブ・アメリカンの仮装をする。当時ロンは9歳でラッセルは5歳。
  3. ^ 教師で図書館の司書だった。
  4. ^ 彼らは一時期、宣伝のために「自分達は子役のモデルや俳優だった」ということを仄めかしていたので、シアーズのカタログのモデルだったという噂が広まってしまったことがある。
  5. ^ 1965年11月29日にロサンゼルスのモーリン・ルージュ・クラブ(Moulin Rouge Club)で開かれたThe Big T.N.T. Showの模様を収録したフィルムには、ザ・ロネッツの出演場面での聴衆の中に彼らが写っている。
  6. ^ 彼がステージで使用するローランドのキーボードのブランド名は'Roland'ではなく'Ronald'になっている。
  7. ^ その雄姿は、同年撮影された映画『ジェット・ローラー・コースター』(1977年公開)に収録された。
  8. ^ ラッセルと共に作詞を担当。

出典

  1. ^ Easlea (2010), p. 17.
  2. ^ Easlea (2010), pp. 18–19.
  3. ^ Easlea (2010), pp. 19–20.
  4. ^ a b c Easlea (2010), p. 22.
  5. ^ Easlea (2010), pp. 23–24.
  6. ^ Easlea (2010), p. 24.
  7. ^ a b Easlea (2010), pp. 25.
  8. ^ Discogs”. 2025年4月30日閲覧。
  9. ^ Discogs”. 2025年4月30日閲覧。
  10. ^ Discogs”. 2025年4月30日閲覧。
  11. ^ Easlea (2010), pp. 27.
  12. ^ Discogs”. 2025年4月30日閲覧。
  13. ^ Discogs”. 2025年4月30日閲覧。
  14. ^ Easlea (2010), p. 267.
  15. ^ Easlea (2010), p. 199.
  16. ^ Easlea (2010), pp. 271–272, 429.

引用文献

  • Easlea, Daryl (2010). Talent Is An Asset: The Story Of Sparks. Omnibus Press. ASIN B003FV7G44 

外部リンク




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