ロクヴィツ谷線
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「ホッホシュタット - プロブストツェラ線」の記事における「ロクヴィツ谷線」の解説
1882年1月シュトクハイム - アイヒヒト (のちのカウルスドルフ) 区間に、既存線路を連結して幹線鉄道を建設することを目的とする条約はバイエルン王国、プロイセン王国、ザクセン=マイニンゲン公国、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国の間に締結された。1885年8月8日シュトクハイム - ルートヴィヒスシュタット区間及びアイヒヒト - プロブストツェラ区間が、同年10月1日には区間が開通された。バイエルン王立鉄道はファルケンシュタインとプロブストツェラとの間の国境部分を賃貸及び運営した。 国境駅であるプロブストツェラ駅では、初めにはバイエルン王立鉄道の機関車がプロイセン王立鉄道の機関車に交換され、貨物はは駅の荷役場で取り扱われた。ベルリン - ミュンヘン間直通列車が1897年登場した前には、乗客は違う鉄道会社の列車へ乗り換えねばならなかった。 この路線は本来なら単線で建設されたが、複線化に備えるために路盤 (Planum) が敷かれていた。上り坂で補助機関車が本務機関車を補助してたびたび復帰したので、そこには二番目の線路が必要であった。それで1890年11月にローテンキルヒェン - プロブストツェラ区間の登り坂が複線化されることがてきた。1905年5月1日ホッホシュタット - ローテンキルヒェン区間で二本の線路を用いることが可能であった。
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