レオポルト3世 (オーストリア公)とは? わかりやすく解説

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レオポルト3世 (オーストリア公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/17 09:51 UTC 版)

レオポルト3世
Leopold III.
オーストリア公
シュタイアーマルク公
ケルンテン公
在位 オーストリア公:1365年 - 1379年
シュタイアーマルク公ケルンテン公:1365年 - 1386年

称号 内オーストリア公
出生 (1351-11-01) 1351年11月1日
神聖ローマ帝国
オーストリア公国ウィーン
死去 (1386-07-09) 1386年7月9日(34歳没)
神聖ローマ帝国
(誓約同盟)ルツェルン州、ゼンパッハ
埋葬 神聖ローマ帝国
ケルンテン公国、ラヴァントタール、聖パウル修道院
配偶者 ヴェルデ・ヴィスコンティ
子女 一覧参照
家名 ハプスブルク家
父親 オーストリア公アルブレヒト2世
母親 ヨハンナ・フォン・プフィルト
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レオポルト3世(Leopold III., 1351年11月1日 - 1386年7月9日)は、ハプスブルク家出身のオーストリア公(在位:1365年 - 1379年)、単独のシュタイアーマルク公ケルンテン公、内オーストリア公(在位:1379年 - 1386年)。ローマ王アルブレヒト1世の孫で、オーストリア公アルブレヒト2世とその妻ヨハンナ・フォン・プフィルトとの間の末息子。兄にルドルフ4世フリードリヒ3世アルブレヒト3世がいる。のちに神聖ローマ皇帝位の世襲化を果たすレオポルト系ハプスブルク家の祖。

生涯

1365年にルドルフ4世が死去した後、アルブレヒト3世とともにハプスブルク家領の共同統治者となったが、1379年に所領を分割し、レオポルトはシュタイアーマルクケルンテンクラインゴリツィアチロルなどを単独統治することとなった。

1375年、エンゲラント卿7世ド・クーシーが、傭兵1万人を擁してアールガウに侵攻(ガグラー戦争)。これに対してレオポルドは、戦闘を回避してアールガウ一帯の破壊を命令。傭兵はフラウブルンネンで大敗して翌1376年にはフランスへ撤退するが、事前に住民の食糧まで奪う焦土作戦を行ったレオポルドは、末代までスイス人の恨みをかうこととなった[1]

1386年、ハプスブルク家の再興を図るためにスイス西部への勢力拡大を企んだが、3倍以上の兵力を率いていたにもかかわらず、盟約者同盟の反攻に遭ってゼンパッハの戦いで大敗、戦死した。

子女

1365年にミラノ僭主ベルナボ・ヴィスコンティの娘ヴェルデと結婚し、6子をもうけた。

脚注

  1. ^ ジョージ・C・コーン(著)、鈴木主税(訳)、浅岡政子(訳)『世界戦争事典 改訂第2版』河出書房新社、2014年9月29日、144,145頁。ISBN 978-4-309-22614-9 
先代
ルドルフ4世
オーストリア公
1365年 - 1379年
アルブレヒト3世と共同統治
次代
アルブレヒト3世
先代
ルドルフ4世
シュタイアーマルク公
ケルンテン公
1365年 - 1386年
アルブレヒト3世と共同統治
(1379年まで)
次代
ヴィルヘルム
レオポルト4世
先代
ルドルフ4世
チロル伯
1365年 - 1386年
アルブレヒト3世と共同統治
次代
アルブレヒト3世



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