四兄弟による相続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 16:21 UTC 版)
「フリードリヒ4世 (オーストリア公)」の記事における「四兄弟による相続」の解説
フリードリヒ4世は、オーストリア公レオポルト3世とヴェルデ・ヴィスコンティの間の末子であった。1379年のノイベルク条約で、レオポルト3世はインナーエスターライヒ(シュタイアーマルク公国、ケルンテン公国、クライン公国)およびチロル、シュヴァーベン公国を領することとなった。1386年にレオポルト3世がゼンパッハの戦いで戦死すると、その子であるヴィルヘルム、レオポルト4世、エルンスト、フリードリヒ4世の四兄弟は叔父のアルブレヒト3世の保護下におかれた。 1395年にアルブレヒト3世が死去すると、レオポルト系の兄弟たちはノイベルク条約で与えられていた権利を主張し始めた。翌1396年、ヴィルヘルムはインナーエスターライヒを、レオポルト4世はチロル伯領を支配することとなった。1402年になると、フリードリヒ4世は父の遺領のうちシュヴァーベン地方に散らばった所領の統治をすることとなった。この地域はフォーダーエスターライヒ(ドイツ語: Vorderösterreich)と呼ばれ、フリードリヒ4世はフライブルク・イム・ブライスガウに宮殿を置いた。1406年にヴィルヘルムが死去し、レオポルト系の領土はまたも再編された。レオポルト4世はフリードリヒ4世にチロルを与えた(ただし、1411年にレオポルト4世が死去するまでは共同君主の扱いだった)。
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