レオポルト4世 (アンハルト公)とは? わかりやすく解説

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レオポルト4世 (アンハルト公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/07 04:36 UTC 版)

レオポルト4世フリードリヒ
Leopold IV. Friedrich
初代アンハルト公
在位 1863年8月19日 - 1871年5月22日
別号 アンハルト=デッサウ公:
1817年8月9日 - 1863年8月19日

出生 (1794-10-01) 1794年10月1日
神聖ローマ帝国
アンハルト=デッサウ侯領、デッサウ
死去 (1871-05-22) 1871年5月22日(76歳没)
ドイツ帝国
アンハルト公国、デッサウ
配偶者 フリーデリケ・フォン・プロイセン
子女 アウグステ
アグネス
フリードリヒ1世
マリア・アンナ
家名 アスカーニエン家
父親 フリードリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ
母親 アマーリエ・フォン・ヘッセン=ホンブルク
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レオポルト4世フリードリヒ(Leopold IV. Friedrich, Herzog von Anhalt-Dessau, 1794年10月1日 - 1871年5月22日)は、11世紀から続くドイツの貴族アスカニア家の出身で、アンハルト=デッサウ公(在位:1817年 - 1863年)、後に統一アンハルト公国の統治者(在位:1863年 - 1871年)。

生涯

アンハルト=デッサウ公世子フリードリヒとその妻でヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ5世の娘であるアマーリエの間の長男として生まれ、父が早くに死んだため、1817年に祖父のレオポルト3世の後を継いだ。1848年革命の際にはデッサウ公国に憲法を制定することを余儀なくされた。この憲法は1849年には廃止されたものの、1859年には新憲法が制定されている。

レオポルト4世は1847年、世継ぎのいない同族のアンハルト=ケーテンハインリヒよりケーテン公国を相続し、アンハルト=ベルンブルク公国とも相続に関する協定を結んだ上で、1853年にアンハルト=デッサウ=ケーテン公国を創設した。アンハルト=ベルンブルク公アレクサンダー・カールにも子供が無く、その死後はレオポルトがアンハルト諸公国を統合することが決まっていた。1863年、アンハルト=ベルンブルク公爵家の断絶により、レオポルト4世は統一アンハルト公国を創設した。

子女

1818年4月28日ベルリンにおいてプロイセン王子ルートヴィヒの娘フリーデリケと結婚し、間に4人の子女をもうけた。妻フリーデリケはハノーファーゲオルク5世の異父姉でもある。

爵位・家督
先代
レオポルト3世
アンハルト=デッサウ公
1817年 - 1863年
次代
アンハルト公国に統一
先代
ハインリヒ
アンハルト=ケーテン公
1847年 - 1863年
次代
アンハルト公国に統一
先代
アレクサンダー・カール
アンハルト=ベルンブルク公
1863年
次代
アンハルト公国に統一
先代
新設
アンハルト公
1863年 - 1871年
次代
フリードリヒ1世



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