レオポルト2世 (アンハルト=デッサウ侯)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 03:13 UTC 版)
レオポルト2世 Leopold II. |
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アンハルト=デッサウ侯 | |
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在位 | 1747年 - 1751年 |
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出生 | 1700年12月25日![]() アンハルト=デッサウ侯領、デッサウ |
死去 | 1751年12月16日(50歳没)![]() アンハルト=デッサウ侯領、デッサウ |
配偶者 | ギーゼラ・アグネス・フォン・アンハルト=ケーテン |
子女 | 一覧参照 |
家名 | アスカーニエン家 |
父親 | アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世 |
母親 | アンナ・ルイーゼ・フェーゼ |
レオポルト2世マクシミリアン(1700年12月25日 - 1751年12月16日)は、アンハルト=デッサウ侯国の君主(在位:1747年 - 1751年)であり、プロイセン王国の将軍である。父はアンハルト=デッサウ侯レオポルト1世(「老デッサウ」)で、母はアンナ・ルイーゼ・フェーゼ。彼はヴィルヘルム・グスタフの弟にあたり、ディートリヒの兄である。
生涯
レオポルト2世は9歳に満たない頃から、プロイセン軍での父の軍務に同行し、軍事教育を受けた。1715年には中佐としてシュテンダールに新設された第27歩兵連隊の連隊長に就任した。1724年には黒鷲勲章の騎士に叙せられた。
軍人としてのキャリアは、第一次シュレージエン戦争において顕著であった。1733年にはテューリンゲン州ミュールハウゼンに駐屯するプロイセン軍を率いた。また、グローガウの奇襲攻略(1741年)やモルヴィッツの戦い、コトゥジッツの戦い、ホーエンフリートベルクの戦い、ゾーアの戦いなどで功績を挙げた。特にコトゥジッツの戦いでは、その戦功により元帥に任命され、フリードリヒ2世に次ぐ指揮権を与えられた。
1747年に父レオポルト1世が死去すると、アンハルト=デッサウ侯国の統治者となり、同時にプロイセン第3歩兵連隊の指揮官も継承した。しかし、侯位継承からわずか4年後の1751年にデッサウで死去した。
彼の死後、侯位は幼少の息子レオポルト3世が継承したが、若年であったため、弟でプロイセンの将軍でもあったディートリヒが後見人を務めた。1752年、プロイセン国王フリードリヒ2世は、1748年に建設されたフォアポンメルンの新しい村に、彼の栄誉をたたえてレオポルツハーゲンと命名した。また、デッサウ城の新築工事をゲオルク・ヴェンツェスラウス・フォン・クノーベルスドルフに開始させたが、完成を見ることなく逝去した。
家族
1737年5月25日、ベルンブルクにおいて同族のアンハルト=ケーテン侯レオポルトの娘ギーゼラ・アグネス(1722年9月21日 - 1751年4月20日)と結婚した。2人の間には以下の7子が誕生した。
- レオポルト3世フリードリヒ・フランツ(1740年8月10日 - 1817年8月9日) - アンハルト=デッサウ侯、後にアンハルト=デッサウ公。
- ルイーゼ・アグネス・マルガレーテ(1742年8月15日 - 1743年7月11日)
- ヘンリエッタ・カタリーナ・アグネス(1744年6月5日 - 1799年12月15日) - 1779年10月26日、レーン男爵ヨハン・ユストゥスと結婚。
- マリー・レオポルディーネ(1746年11月18日 - 1769年4月15日) - 1765年8月4日、リッペ=デトモルト伯ズィーモン・アウグストと結婚。
- ヨハン・ゲオルク(1748年1月28日 - 1811年4月1日) - プロイセンの将軍。
- カズィミーレ(1749年1月19日 - 1778年11月8日) - 1769年11月9日、亡姉の寡夫であるズィーモン・アウグストと結婚。
- アルベルト・フリードリヒ(1750年4月22日 - 1811年10月31日) - 1774年、リッペ=ヴァイセンフェルト伯女ヘンリエッテと結婚。嫡子は生まれなかったが、アンナ・ルイーゼ・フランケとの間に非嫡出子のグスタフ・アドルフ・フォン・ハイデックを設けた。
参考文献
- Deutsche Biographie: Leopold II. - Deutsche Biographie
- Royal Collection Trust: Johann Joseph Freidhoff (1768-1818) - LEOPOLD MAXIMILIAN FURST ZU ANHALT DESSAU
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