ランベルト・スストリスとは? わかりやすく解説

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ランベルト・スストリス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/13 08:26 UTC 版)

ランベルト・スストリス
ランベルト・スストリス『ヴィーナスとキューピッド』, ルーヴル美術館 (1554年頃)
生誕 Lambert Sustris
1515年頃-1520年頃
オランダ, アムステルダム
死没 1584年頃
ヴェネツィア共和国, ヴェネツィア(不確実)
国籍 オランダ
教育 マールテン・ファン・ヘームスケルク, ヤン・ファン・スコーレル,
著名な実績 絵画
運動・動向 ルネサンス

ランベルト・スストリス: Lambert Sustris, 1515年頃 - 1591年頃)は、主にヴェネツィアで活動したオランダ画家である。ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオの工房で働いた。

経歴

アムステルダムに生まれた。修業時代についてはよく分かっていないが、マールテン・ファン・ヘームスケルクヤン・ファン・スコーレルのもとで修業を積んだとされる。彼は人生のほとんどをイタリアで過ごした[1]。スストリスは1530年代にヘームスケルクとともにローマに滞在したのち、40歳以上になってからヴェネツィアを訪れてティツィアーノの工房に入った。工房での彼はアルベルト・デ・オランダ(オランダのアルバート)とも呼ばれ、風景の描写を専門としていた[1]ジョルジョ・ヴァザーリによると1540年から1543年にパドヴァの宮殿と別荘のフレスコ画装飾に従事した。パドヴァ近郊のヴィラ・デイ・ヴェスコヴィ英語版のフレスコ画は現在スストリスに帰属されている。1548年および1550年から1551年にかけて、スストリスはティツィアーノに同行してアウクスブルクに旅行し、そこで肖像画を描いている。ヴェネツィアに戻ってからはパルミジャニーノアンドレア・メルドラに影響を受けた。イタリアで完成したスストリスの作品はマニエリスム様式あるいは前バロックのいずれかに見なされる品質を示している。

また彼はジローラモ・ムジアーノ英語版の師であった。ムジアーノの研究者、パトリツィア・トシーニ(Patrizia Tosini)が指摘したように、スストリスの作品は弟子ムジアーノを介して、16世紀半ばのヴェネツィア人の景観への関心と歴史的主題の背景としての風景画の役割が16世紀半ばから後半にかけてローマに広まるうえで重要な意味を果たしている[2]

息子に画家、建築家のフリードリヒ・スストリス英語版がいる。

ギャラリー

脚注

  1. ^ a b Bartz, König: Louvre: Kunst und Architektur. (Könemann, 2005) p.312.
  2. ^ Patrizia Tosini, Girolamo Muziano dalla Maniera alla Natura (Roma: Ugo Bozzi Editore, 2008) pp. 18-21.

関連項目




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