ラナウでの捕虜殺害疑惑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 14:55 UTC 版)
「サンダカン死の行進」の記事における「ラナウでの捕虜殺害疑惑」の解説
ラナウでは6月25日には約190名の捕虜が生存していたが、6月28日にはもう19人が死亡していた。生き残った捕虜たちは、1日米70~75gというわずかな食料で、過酷な労働(衰弱した体で、20kgはある食料の運搬、水汲み、設備建築作業など)に従事させられていたという。 かねて台湾人監視員より、高桑大尉が捕虜全員を殺害すると聞いていたキース・ボッテリル以下4名が、7月7日夜に脱走。3名がオーストラリア軍に救出される。 7月18日には捕虜収容所という名の草ぶき屋根の小屋が完成。生き残っていた捕虜72人のうち、赤痢患者である34人が床下に押し込められる。彼らにはもはや死体を埋葬する体力もろくに残っておらず、7月20日には強制労働が停止される。 7月26日、スティップウィッチ以下2名が脱走し、スティップウィッチのみ助かる。 8月1日朝、高桑大尉は生き残っていた33名の捕虜を三つのグループに分けて処分する事を決定。動ける者は自らの足で墓地まで向かう事を強要され、動けない者は担架で運ばれ、全員が銃殺され、処分は終了したという。
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