ライン川戦役 (1713年)とは? わかりやすく解説

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ライン川戦役 (1713年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 09:50 UTC 版)

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ライン川戦役
戦争スペイン継承戦争
年月日1713年5月 - 11月
場所神聖ローマ帝国アッパーライン英語版
結果:フランスの勝利
交戦勢力
神聖ローマ帝国 フランス王国
指導者・指揮官
プリンツ・オイゲン
ヴュルテンベルク公カール・アレクサンダー
クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール
ジャック・バザン・ド・ブゾン英語版
アーサー・ディロン英語版
戦力
騎兵115個大隊
歩兵85個大隊
騎兵300個大隊
歩兵240個大隊

1713年のライン川戦役英語: Rhine Campaign)は、フランス王国による対神聖ローマ帝国の戦役。神聖ローマ帝国がユトレヒト条約への署名を拒否した後、この戦役で敗れたため翌年にラシュタット条約に署名した。

背景

1713年4月11日、スペイン継承戦争のほとんどの参戦国、すなわちスペイン王国フランス王国グレートブリテン王国ポルトガル王国サヴォイア公国ネーデルラント連邦共和国ユトレヒト条約を締結した。ハプスブルク帝国および神聖ローマ帝国が条約への署名を拒否したため、フランスとの戦争は継続した。

経過

1713年までにフランスも帝国も疲弊したが、フランスはそれでも騎兵300個大隊と歩兵240個大隊を編成できた。その指揮はクロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール元帥に任せられた。帝国側のプリンツ・オイゲンは全軍をスペイン領ネーデルラントからアッパーライン英語版地方に移動、ドイツ諸侯の軍勢とも調整を行おうとしたが、英蘭からの援助金が講和により停止されたため、帝国軍は大幅に弱体化、ドイツ諸侯と合流した後でもプリンツ・オイゲンの軍勢が騎兵115個大隊と歩兵85個大隊と、フランス軍の3分の1程度だった。

フランス軍は6月にライン川を渡河、6月24日にはジャック・バザン・ド・ブゾン英語版ランダウの包囲を開始した。ヴュルテンベルク公カール・アレクサンダーが守備するランダウは8月26日まで耐えた後降伏した。アーサー・ディロン英語版カイザースラウテルンを落とした。その後、ヴィラールは進軍して9月20日にフライブルクを包囲、フライブルクの町は10月15日に、城塞は11月17日に降伏した。会戦に挑めなかったため、プリンツ・オイゲンはこれらの侵攻を傍観するしかなかった。

フランス王ルイ14世はここで交渉を求め、帝国もそれに応じた。ヴィラールとオイゲンはバーデン=バーデン辺境伯領ラシュタットで面会、一連の交渉を経て1714年3月7日にラシュタット条約を締結した。

参考文献




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