モンゴル・宋の同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
詳細は「蔡州攻囲戦」を参照 1233年2月、モンゴル軍が開封の包囲を10カ月以上行い、金の哀宗は蔡州に退避した。1233年、金は使者を派遣し、宋に物資の提供を求めた。金の使者は、「モンゴルは金を滅ぼした後に宋に侵攻するだろう」と報告したが、宋はその警告を無視し、要求を拒否した。そして宋はモンゴルと同盟を結び、金に対抗した。宋はモンゴルに物資を提供し、その見返りとして河南の一部を獲得した。1234年、モンゴル軍と宋軍が蔡州攻囲戦で破ったことにより、金は遂に滅亡した。宋将の孟珙は宋軍を率いて蔡州を攻め落とした。金の皇帝である哀宗は自ら命を絶ち、その後継者である完顔呼敦は、半日後に蔡州で殺された。その後、宋蒙両国は河南の領有を巡って決裂し、敵対関係に変わった(端平入洛)。何十年にもわたる戦争の末、1279年には広東付近の海域で残っていた宋の残存勢力が崖山の戦いにてモンゴル帝国に敗れ、宋も滅亡してしまった(モンゴル・南宋戦争)。
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