マンガンマルの功績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/20 18:52 UTC 版)
「マドゥライ・ナーヤカ朝」の記事における「マンガンマルの功績」の解説
だが、その息子のランガクリシュナ・ムットゥ・ヴィーラッパ・ナーヤカ(在位1682 - 1689)の治世には、北インドからの圧力も強まりを見せるようになった。 1681年から、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブによりデカン戦争が行われ,1686年にビジャープル王国と、1687年にゴールコンダ王国が滅ぼされ、1689年にはマラーター王国の王サンバージーを捕え処刑し、デカンに進出しつつあったマラーター王国を南に押し返した。 このように、1680年代にムガル帝国がデカンにおいて覇権を確立すると、皇帝アウラングゼーブはマラーター勢力の追討も兼ねて、南インド侵略しようとし、マドゥライ・ナーヤカ朝も危機にさらされた。 このような情勢の中、1689年、ランガクリシュナ・ムットゥ・ヴィーラッパ・ナーヤカは死に、その母親でチョッカナータ・ナーヤカの妃マンガンマール(在位1689 - 1704)が、後を継いだ。 1690年代にかけて、マンガンマールはムガル帝国のアウラングゼーブの侵略を食い止め、南下してきたマラーター勢力や、かねてからの南インドのマイソール王国、タンジャーヴール・マラーター王国の侵入に対抗した。 この女王がマドゥライ・ナーヤカ朝で最も偉大な君主とされるのは、こうした外敵の侵入を食い止めた功績からだろう。 なお、1704年にマンガンマールは、孫のヴィジャヤランガ・チョッカナータ・ナーヤカ(在位1704 - 1731)に王位を譲り、1705年に死亡した。
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