マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前54年の財務官)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/25 07:38 UTC 版)
![]() マルクス・リキニウス・クラッスス M. Licinius Crassus[1] |
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出生 | 紀元前85年ごろ |
死没 | 紀元前49年ごろ |
出身階級 | ノビレス |
氏族 | リキニウス氏族 |
官職 | 神祇官(紀元前60年-) クァエストル(紀元前54年) プロクァエストル(紀元前53年) レガトゥス(紀元前49年) |
配偶者 | クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクスの娘 |
後継者 | マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官) |
マルクス・リキニウス・クラッスス(ラテン語: Marcus Licinius Crassus, 紀元前85年ごろ - 紀元前49年ごろ)は、共和政ローマ末期の政務官。第一回三頭政治を行ったマルクス・リキニウス・クラッススの息子。ガリア戦争で活躍した。
生涯
前半生
父はマルクス・リキニウス・クラッスス、母はテルトゥッラで、紀元前85年ごろの生まれと推測される[2]。紀元前86年ごろ生まれたとされるプブリウス・リキニウス・クラッススは兄になる[3]。
父クラッススは、自分をカティリナ事件の黒幕と疑ったマルクス・トゥッリウス・キケロを嫌っていたが、兄プブリウスは彼と親交を持っていた[4]。キケロからシリアにいる父クラッススに宛てた書簡の中で、プブリウスと一緒にマルクスも、愛情と美徳、人望を兼ね備えていると褒められている[5]。
紀元前60年、クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌスかデキムス・ユニウス・シラヌスの後継神祇官として、父クラッススかマルクスのどちらかが就任したと考えられている[6]。
ガリア戦争
紀元前54年、クァエストルに就任し、ガイウス・ユリウス・カエサルの配下となってガリアで戦い[1]、ガリアで越冬する軍団指揮を、レガトゥスのルキウス・ムナティウス・プランクス、ガイウス・トレボニウスと共に任された[7]。レガトゥスのクィントゥス・トゥッリウス・キケロがネルウィイ族の攻撃を受けると[8]、カエサルに強行軍で来るよう呼び出され、捕虜や物資が集積されているサマロブリウァの守備を任された[9]。翌紀元前53年も続けてガリアで戦い[10]、カエサルと共にメナピィ族を焼き討ちし、降伏させた[11]。兄プブリウスも紀元前56年までカエサルの下でレガトゥス(副官)を務め、戦果を挙げている[12]。
その後
グナエウス・ポンペイウスがカエサルの攻撃を受け、ブルンディシウムからエピルスに逃げると、カエサルはヒスパニアに残るポンペイウス軍を掃討してローマ市へ戻り[13]、紀元前49年、おそらくレガトゥスとして[14]、ガリア・キサルピナの守備をマルクスに命じた[15]。その後すぐ亡くなったものと考えられている[3]。
家族
紀元前63年もしくは62年ごろ、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクスの娘メテッラと結婚し、マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官)を儲けた。アッピア街道沿いに残る妻メテッラの墓(チェチーラ・メテッラの墓)には、ガイウスのガリアでの活躍がモチーフとなった装飾が施されている[16]。
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プブリウス・リキニウス | |||||||||||||||||||||||||||||||
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プブリウス・リキニウス・クラッスス (クラッスス家初代) |
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ガイウス・リキニウス・ウァルス (紀元前236年の執政官) |
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プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス (紀元前205年の執政官) |
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ガイウス・リキニウス・クラッスス |
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プブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前171年の執政官) |
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ガイウス・リキニウス・クラッスス (紀元前168年の執政官) |
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マルクス・リキニウス・クラッスス | |||||||||||||||||||||||||||||
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マルクス・リキニウス・クラッスス・アゲラストス(法務官) |
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プブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前97年の執政官) |
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ウェヌレア | |||||||||||||||||||||||||||||||
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プブリウス・リキニウス・クラッスス |
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(ガイウス?)・リキニウス・クラッスス |
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テルトゥラ |
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マルクス・リキニウス・クラッスス (第一回三頭政治) |
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カエキリア・メッテラ |
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マルクス・リキニウス・クラッスス |
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プブリウス・リキニウス・クラッスス |
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コルネリア・メッテラ |
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グナエウス・ポンペイウス (第一回三頭政治) |
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マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官) |
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脚注
参考文献
- カエサル『ガリア戦記』。
- プルタルコス『対比列伝』。
- アッピアノス『内乱記』。
- T. R. S. Broughton (1952). The Magistrates of the Roman Republic Vol.2. American Philological Association
- Ronald Syme (1980). “The Sons of Crassus”. Latomus (Société d'Études Latines de Bruxelles) 39 (2): 403-408. JSTOR 41531764.
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