マヤ・ウィドメーアー=ピカソとは? わかりやすく解説

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マヤ・ウィドメーアー=ピカソ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/05 14:29 UTC 版)

マヤ・ウィドメーアー=ピカソ
Maya Widmaier-Picasso
生誕 María de la Concepción Picasso
(1935-09-05) 1935年9月5日
フランス ブローニュ=ビヤンクール
死没 2022年12月20日(2022-12-20)(87歳没)
フランス ヌイイ=シュル=セーヌ
別名 Maya Ruiz-Picasso
配偶者
ピエール・ウィドメーアー(結婚 1960年)
子供 3人
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マリア・デ・ラ・コンセプシオン・“マヤ”・ウィドメーアー=ピカソ(María de la Concepción "Maya" Widmaier-Picasso、1935年9月5日 - 2022年12月20日)は、パブロ・ピカソマリー=テレーズ・ワルテルの娘である。晩年には、父パブロの作品の保存と研究に尽力した[1][2][3]

生涯

1935年9月5日にフランスブローニュ=ビヤンクールで生まれ、マリア・デ・ラ・コンセプシオンと命名された。コンセプシオンは、父パブロの妹で幼くして亡くなったコンセプシオン(コンチータ)から取ったものである[4]。幼い頃にマリアをマヤと発音したことから、生涯にわたりマヤの愛称で呼ばれるようになった[5]。父パブロにとっては2人目の子供である。母マリー=テレーズはパブロの愛人だった。異母兄に、父と正妻オルガ・コクローヴァとの間の息子パウロベルナールマリーナの父)がいる。また、愛人フランソワーズ・ジローとの間の異母弟妹、クロードパロマがいる[6]

ピカソの伝記を書いた美術史家ジョン・リチャードソン英語版によれば、パブロはマヤの出生届を出す際に、父親を「不明」と記載した。これは、フランスの法律において、既婚男性が妻以外の女性の子供の父親として届け出することが禁止されていたためである。1942年のマヤの洗礼式では、パブロはマヤの代父を名乗った[5]

マヤが生まれたとき、父パブロは正妻オルガ・コクローヴァとまだ婚姻関係にあり、パウロという息子がいた[3]。マヤの母マリー=テレーズ・ワルテルは1927年1月からパブロと交際していた。1935年、パブロの不倫と相手の妊娠を知ったオルガは、息子を連れて家を出た。一方、パブロはマヤが生まれたころから様々な女性と付き合い始め、1936年には愛人ドラ・マールとの交際を始めた[4]

1937年秋、マヤは母とともにヴェルサイユから約25キロメートル離れたル・トロンブレ=シュル=モルドル英語版に移った[7]。ピカソは、毎週末や時折平日にも、娘と遊ぶためにここを訪れていた。2人は第二次世界大戦が勃発するまでここに住んでいた。1939年9月からはマリー=テレーズの家族とともにロワイヤンに滞在したが、1941年春にパリに移り、サン=ルイ島のアパルトマンで生活した。マヤが5歳のとき、父パブロはマヤに絵を教えるために、一連の習作帳を手作りした。これは、マヤが絵画を習得する過程を模倣して、自身の創作活動に活かすためだったと考えられる[3]。1944年8月のパリ解放の後、両親は時々会う程度となり、マヤが父パブロに会えたのは、夏のバカンス中で南仏に行ったときだけだった。これは、パブロが新たな愛人フランソワーズ・ジローとともに南仏に移住したためである[8]。ジローは後に、マヤは「父親は遠くで働いているという虚構」の中で生きていたと述べている[4]。第二次世界大戦終結後、パブロは10歳になったマヤに、それまで存在を知らせていなかった異母兄パウロの存在を知らせた[3]

18歳のときにスペインに移り住み、マドリードのフランス人学校リセ・フランセ・ド・マドリード英語版で学んだ。その後、父の家族が住むバルセロナに移り、いとこの整形外科用コルセットの設計を手伝った。20歳のときにパリに戻り、フェミニスト向け雑誌の仕事に携わった後、ジャズ歌手ジョセフィン・ベーカーの個人秘書となった[3]

1955年の夏は、ニーススタジオ・ド・ラ・ヴィクトリーヌアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督のドキュメンタリー映画『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』(Le mystère Picasso)の制作に協力する父パブロを手助けした[8]

1960年、マヤは元海軍士官ピエール・ウィドメーアー(Pierre Widmaier)と結婚し、オリビエ(Olivier)、リシャール(Richard)、ディアナ英語版(Diana)の3人の子供をもうけた[9]

1973年に父パブロが死去すると、マヤや他のパブロの非嫡出子は、相続人としての地位を求めて提訴した[3]。パブロが遺書を残さなかったため、相続人間の合意形成は困難を極めたが、最終的にマヤは、パブロの遺産の1割を相続した。また、この頃から、父パブロの父系の姓である"Ruiz"を併称してルイズ=ピカソと名乗るようになった[5]

マヤはピカソ作品の権威としての評価を獲得し、サザビーズクリスティーズなどのオークションハウスからの鑑定支援の依頼を受けることもあった[3]。マヤは、相続した父の作品の寄贈や貸与を行った。父の遺産を保存する活動が評価され、2007年にレジオンドヌール勲章シュヴァリエを、2016年に芸術文化勲章コマンドゥールを授与された[5]

2015年、パリのグラン=オーギュスタン通り英語版7番地のオテル・ドゥ・サボイア内にピカソのアトリエを収めた建物を再オープンさせ、ピカソの生涯と作品に関する活動を展開するための、マヤ・ピカソ芸術教育財団を発足させた[10]

モンパルナス墓地のマヤの墓

マヤは2022年12月20日に、肺の合併症により死去した。87歳だった[11][12]。遺体はモンパルナス墓地に埋葬された。

ピカソによる肖像画

パブロ・ピカソは、マヤが7歳から18歳にかけて、マヤの肖像画を多数制作している。1838年の作品『初雪(マヤの肖像)』(Première neige (Portrait de Maya))には、マヤの幼少期の姿が描かれている。マヤはこの絵について、「あの日は私が初めて歩いた日だった。私は小さなピンクのブーツを履いており、そのブーツは父が生涯大切にしていた」と回想している[13]

ピカソが1937年に記念碑的な作品『ゲルニカ』を完成させた時期、1938年の『人形を抱くマヤ英語版』(Maya à la poupée)や『セーラー服を着るマヤ』など、ピカソは娘の肖像画も数多く残した。ピカソは1938年から1939年にかけて、マヤの肖像画を14点制作した[5]

2017年、ガゴシアン・ギャラリー英語版はパリで展覧会「ピカソとマヤ: 父と娘」を開催し、マヤの娘ディアナがキュレーションを行った。これは、ピカソがマヤを描いた肖像画に焦点を当てた初の展覧会だった[14]

脚注

  1. ^ La hija de Picasso obtendrá la nacionalidad española” (スペイン語). La Vanguardia (2017年3月30日). 2020年12月12日閲覧。
  2. ^ Family tree of María de la Concepción PICASSO” (英語). Geneanet. 2020年12月12日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g Darwent, Charles (2023年1月3日). “Maya Widmaier-Picasso obituary” (英語). The Guardian. 2023年1月11日閲覧。
  4. ^ a b c Widmaier Picasso, Olivier (2018年3月8日). “Muse, lover, lifeblood: how my grandmother woke the genius in Picasso” (英語). The Guardian. 2022年11月11日閲覧。
  5. ^ a b c d e Genzlinger, Neil (2022年12月25日). “Maya Ruiz-Picasso, Artist's Daughter and Inspiration, Dies at 87” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/2022/12/25/arts/maya-ruiz-dead.html 2023年1月12日閲覧。 
  6. ^ Esterow, Milton (2016-03-07). “The Battle for Picasso's Multi-Billion-Dollar Empire” (英語). Vanity Fair. https://www.vanityfair.com/culture/2016/03/picasso-multi-billion-dollar-empire-battle 2023年1月12日閲覧。. 
  7. ^ Widmaier Picasso, Diana (2018年3月10日). “Picasso Unbound: The Artist's Secret Romance” (英語). British Vogue. 2022年11月25日閲覧。
  8. ^ a b Maya-Ruiz Picasso Exhibitions. Musee Picasso Paris. https://www.museepicassoparis.fr/sites/default/files/2022-04/DP_MAYA_UK_V5_BAT_WEB.pdf 
  9. ^ Maya Picasso / Picasso. Portraits | Picasso Museum Barcelona”. www.bcn.cat. 2023年1月12日閲覧。
  10. ^ Perlson, Hili (2015年7月21日). “Picasso's Paris Studio Will Open to the Public” (英語). Artnet News. 2023年1月12日閲覧。
  11. ^ Maya Ruiz-Picasso, filha do pintor espanhol, morre aos 87 anos”. GZH (2022年12月20日). 2022年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年9月30日閲覧。
  12. ^ “Maya Ruiz-Picasso obituary”. The Times. (2022年12月27日). https://www.thetimes.com/uk/article/maya-ruiz-picasso-obituary-0xrv39rx5 2022年12月27日閲覧。 
  13. ^ Alberge, Dalya (2020年8月16日). “My father, Picasso: secret daughter tells of posing in pink bootees” (英語). the Guardian. 2023年1月11日閲覧。
  14. ^ AnOther (2017年10月20日). “The Show Exploring Picasso's Relationship with His Daughter” (英語). AnOther. http://www.anothermag.com/art-photography/10285/the-show-exploring-picassos-relationship-with-his-daughter 2018年10月6日閲覧。 



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