ステュディオス・ド・ラ・ヴィクトリーヌとは? わかりやすく解説

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ステュディオス・ド・ラ・ヴィクトリーヌ

(スタジオ・ド・ラ・ヴィクトリーヌ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/01 18:58 UTC 版)

スタジオの入口

ステュディオス・ド・ラ・ヴィクトリーヌフランス語: Studios de la Victorine)またはヴィクトリーヌ・スタジオ英語: Victorine Studios)は、フランスニースにある映画スタジオである。所在地名からニース・スタジオ英語: Nice Studios)とも言う。かつては、ニース市内に他にもいくつかの小規模なスタジオが存在した。

歴史

1921年、コート・ダジュールハリウッドスタイルの映画スタジオを創設しようとして建設された[1]。設立の中心的な人物は、映画プロデューサーのルイ・ナルパ英語版セージ・サンドバーグ英語版だった。当初は初期のグラスハウス・スタイルで建設されたが、すぐに近代的な電気を使用した設計に改装された[2]。中には、サウンドステージ英語版(防音ステージ)が7つあった[3]。本スタジオは、パリに集積していた他のスタジオと並行して使用された。本スタジオの発展には、映画プロデューサーのルイ・ナルパが重要な役割を果たした。1920年から1944年までは、ニース近郊に第二の映画スタジオ、ステュディヨス・ド・サン=ローラン=デュ=ヴァール英語版があった。

第二次世界大戦勃発後は、本スタジオの重要性が増した。ナチス・ドイツのフランス侵攻でフランスが敗北したことにより、パリを含むフランスの国土の大部分がナチス・ドイツにより占領されたが、ニースはヴィシー政権の勢力下の南フランスにあった。多くの映画技術者や俳優がナチスを避けて南フランスに逃れ、本スタジオで職を得た。

終戦直後、本スタジオはパリへの従属を再開し、創作活動は不安定となった[4]

2000年、本スタジオの運営がニース市から民間企業に委託され、「スタジオ・リビエラ」に改称した。2017年11月22日に委託期間が終了して、ニース市による運営に戻り、元の名称に戻された[5][6]

脚注

  1. ^ Crisp p.95
  2. ^ Crisp p.96
  3. ^ Crisp p.118
  4. ^ Crisp p.118
  5. ^ Nice reprend les studios de la Victorine pour les relancer” [The city of Nice gets back the Victorine studios in order to give them a new impulse] (フランス語). lefigaro.fr (2017年11月14日). 2018年4月19日閲覧。
  6. ^ Nice reprend les studios de la Victorine pour les relancer” (フランス語). LEFIGARO (2017年11月14日). 2022年7月27日閲覧。

参考文献

  • Crisp, C.G. The Classic French Cinema, 1930-1960. Indiana University Press, 1993.

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