マイク・メンツァーとは? わかりやすく解説

マイク・メンツァー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/14 23:20 UTC 版)

マイク・メンツァー(Mike Mentzer, 1951年11月15日 - 2001年6月10日)は、アメリカ合衆国の元IFBBプロボディービルダー

ペンシルベニア州フィラデルフィアのジャーマンタウン出身のドイツ系アメリカ人で、トレーニング法の研究・著書で知られた。

ボディビル哲学

メンツァーはアーサー・ジョーンズが開発したボディビル概念を更に完璧なものに高めようとした。彼の長年の研究、観察、ストレス生理学の知識、利用し得る最新の科学情報、そして彼の推測を通して、1つのボディビル理論を考案・実証しようとした。その理論は、人間が最も短い時間量で、完全な遺伝子の可能性を努力によって得るのを目的としている。

彼は客観主義者で、哲学とボディビルは同義であると主張した。彼は「人間は分割出来ない実体で、心と身体の統合単位である」と述べた。かくして、彼の著書はボディビル情報と同じぐらい彼の哲学を含んでいる。

「High-Intensity Training the Mike Mentzer Way」はメンツァーの最後の仕事だった。その中で彼は、ハイ・インテンシティ・ウェイト・トレーニングの原則を事細かに記した。彼の主張によると、ウェイト・トレーニングは簡潔で不定期で尚且つ激しく、最も短い時間量で最高の結果に到達するオーダーでなければならない。「Heavy Duty II」もまた、決定的な考えを力説している。この本では、メンツァーは人々が幸せに暮らす、成熟した、大人の人生を過ごす為の推理力を必要としている事を示し、そしてそれを現実にする方法を読者に示している。

また「カロリーはカロリー以外の何物でもない」というアプローチを採用した事でも知られ、コンテスト時期の近くまで自由にデーニッシュやその他の無制限な食事を行ったあげく、厳しいダイエットを行うボディービルダー達を(言論で)頻繁に痛めつけた。

メンツァーのボディビルディング理論

メンツァーは(独創的な)「予備疲労のためのウェイト・トレーニング」を提唱した。例えば、レッグ・エクステンションはスクワットの前に行う、サイド・デルタ・レイズはショルダー・プレスの前に行う、フライ系はベンチ・プレスの前に行う、スティッフ・アーム・プルダウンはスタンダード・ラット・プルダウンの前に行う、等である。メンツァーはまた、“出来ない回数を超える”フォースド・レップス、ネガティブ・レップス、スタティック・ホールド、フォースド・ネガティブなどの提唱で知られていた。全般的に、1種目につき1~2セットのみ、1つの筋群につき5種目を超えないようにとしている。

トレーニング・ビジネスを一新した1990年代、メンツァーはアーサー・ジョーンズと自身が提唱した比較的量の少ないルーティンでさえ、実際には平均的なトレーニー達にとっては著しく疲労を感じるものだと確信していた。その後、両脚・胸・三角筋・二頭筋を含む10日~2週間に1回のワークアウトを提唱した。

トレーニーにプラトー(停滞)が訪れると、6日~10日に1回の、非常に短い全身のワークアウトを含むアドバンスド・システムに切り替える。一部の生徒達は、各筋群のトレーニングを3週間に1回行うと語る。

メンツァーと“ハイ・インテンシティ”トレーニングの信奉者は、かなりの過酷さ、正しいフォームで怪我なしで扱える高重量の使用を強いなければならないと信じた。一般的に、ハイ・インテンシティ・トレーニングのトレーナー達はオリンピックの重量挙げ、その派生の運動、プライオメトリック・ドリルズ等あらゆる爆発的若しくは瞬間的な挙上を避ける傾向にある。

一般的に、ハイ・インテンシティは「平均的に、筋力が400%向上している時、回復力は50%程度でしかない」というジョーンズの意見を信奉している。

Therefore, the stronger one becomes, counterintuitively, the less one must train.

以下はメンツァーの原則に従ったワークアウト・ルーティンの例である。

  • ワークアウト1:ベンチ・プレス - 1回5セットまたは8回を超えない重量で1セット
サイド・レイズ又はオーバーヘッド・プレス - 1セット
  • ワークアウト2:デッドリフト - 1回5セット又はダンベル・シュラッグ - 1セット
  • ワークアウト3:スクワット - 10回-6回-4回-2回 高重量ピラミッド
フロンタル・スクワット又はレッグ・プレス - 1セット
  • 3週目の月曜日に再びワークアウト1に戻る

註:(彼の最新の著書に基づく)彼は次のワークアウトまでの完全回復のために4日~1週間(または必要なだけ長く。3週間というケースもある)の休息を取るようにとアドバイスする。彼は肉体の自然回復機能は 治癒と筋量増加が必要としたときから、その十分な効果を得るには長い時間がかかるのだと述べている。

コンテスト経歴

  • 1971 Mr. America - AAU, 10th
  • 1971 Teen Mr America - AAU, 2nd
  • 1975 Mr. America - IFBB, Medium, 3rd
  • 1975 Mr. USA - ABBA, Medium, 2nd
  • 1976 Mr. America - IFBB, Overall Winner
  • 1976 Mr. America - IFBB, Medium, 1st
  • 1976 Mr. Universe - IFBB, MiddleWeight, 2nd
  • 1977 North American Championships - IFBB, Overall Winner
  • 1977 North American Championships - IFBB, MiddleWeight, 1st
  • 1977 Mr. Universe - IFBB, HeavyWeight, 2nd
  • 1978 USA vs the World - IFBB, HeavyWeight, 1st
  • 1978 World Amateur Championships - IFBB, HeavyWeight, 1st
  • 1979 Canada Pro Cup - IFBB, 2nd
  • 1979 Florida Pro Invitational - IFBB, 1st
  • 1979 Night of Champions - IFBB, 3rd
  • 1979 Mr. Olympia - IFBB, HeavyWeight, 1st
  • 1979 Pittsburgh Pro Invitational - IFBB, 2nd
  • 1979 Southern Pro Cup - IFBB, 1st
  • 1980 Mr. Olympia - IFBB, 5th

ボディビル経歴

メンツァーは1969年、18歳の頃から地方のコンテストに出場し始め、1971年にはAAU開催のミスター・アメリカにおいて10位という散々な結果に終わるが(優勝者はケイシー・ビエター)、ビエターのトレーナーであったアーサー・ジョーンズとの出会いが彼にとっての転機となる(その後ジョーンズと連絡を交わし、彼自身のトレーニング・システムにジョーンズの理論を取り込んでいった)。

数年の期間を経て、コンテスト復帰となった1975年のミスター・アメリカにおいて、ロビー・ロビンソン、ロジャー・カラードに次いで3位に入賞。1976年には初めての優勝を経験。1977年にはノース・アメリカ・チャンピオンシップス(カナダ・ヴァンクーバー)、ブリティッシュ・コロンビアで優勝、ミスター・ユニヴァース(フランス)ではカル・シュカラックに次ぐ2位。

1978年のミスター・ユニヴァース(メキシコ・アカプルコ)においてパーフェクト・スコアで優勝を飾り、IFBBプロに転向。1979年のミスター・オリンピアでは重量級で1位になるも、オーバーオール対決でフランク・ゼーンに破れる(これによりゼーンは同タイトル3連覇となった)。そして多くのボディビル・ファンが優勝はメンツァーだと信じて疑わなかった翌1980年の同大会では、アーノルド・シュワルツェネッガー、クリス・ディッカーソン、フランク・ゼーンに次いで、ボイヤ・コーとタイ・スコアの4位に終わり(本大会における、4年のブランクを置いての復帰で甘い仕上がりだった点や審査員がアーノルドと交流のある人物になるなどアーノルドの優勝には今尚疑問の声も多い)、大会後メンツァーは(結果に納得出来ず)現役を引退した。一説では控え室でアーノルドとなにかしらのトラブルがあったとされ、生前はアーノルドとは犬猿の仲であったという[要出典]

晩年と死

1980年のミスター・オリンピアでの失意の後、メンツァーは非常に多くの問題を抱えるようになったと伝えられる。1970年代の終わり頃、メンツァーはアンフェタミンの服用を開始したという。彼は、忙しいライフスタイルを促進するのを助けるエルゴジェニック・エイドとして所持していたのだと主張している。メンツァーは前述のミスター・オリンピアにおける失意の後間もなくウィダー出版での自らの地位を捨て、それは結果として彼を金銭的に苦しめた。1985年、新たに着手したワークアウト・マガジンの編集者に就くが、同年自身の父が亡くなる不幸に見舞われ、心身衰弱に悩んでいたという。フレックス・マガジンの編集長であるピーター・マックゴーによると、彼の数々の奇行が噂され始めたという。著名なボディビル・ライターの Dan Duchain はメンツァーが当時、自らの尿を飲用していたとほのめかしたが、メンツァー自身は2001年のアイアンマン・マガジンのインタビューにおいて否定している。それにも関わらず、マックゴーによるとそれらの噂のいくつかは真実であるという。

メンツァーは1985年から1990年にかけて定期的に入院を繰り返し、最終的に薬物中毒からようやく抜けだし、ボディービルダーへの指導とアイアンマン・マガジンへの執筆を再開、彼のボディビル業界における名声は回復する事になった。

2001年6月10日、彼の弟で良きボディービルダー仲間でもあったレイ・メンツァーと同居していたアパートメントにおいて心臓病が原因で死亡した。しかし彼はメタンフェタミンを10年近く過剰に使用し、それが死に至る原因だったとも伝えられている。そのわずか2日後、弟のレイもまた、長年患っていたバーガー病による合併症のために兄を追うように亡くなった。

参考文献

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