ボグド・ハーン政権における使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 07:00 UTC 版)
「共戴紀元」の記事における「ボグド・ハーン政権における使用」の解説
1911年10月、武昌蜂起をきっかけに清朝政府の統治能力が急速に弱体化すると、ハルハ(外モンゴル)諸王公は12月1日、フレー(庫倫、現在のウランバートル)でモンゴル独立を宣言、12月29日モンゴル最高の活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世を清の皇帝に代わる「ボグド・ハーン」に推戴する儀式を挙行した。これ以後ボグド・ハーン政権(共戴モンゴル国)は共戴紀元を干支紀年とともに使用したが、1915年のキャフタ条約(英語版)でボグド・ハーン政権の地位が中華民国の宗主権下の「自治」に限定されると、共戴紀元は同年6月9日をもって使用が禁止された。
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