ホールカル家との紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/19 15:10 UTC 版)
「ダウラト・ラーオ・シンディア」の記事における「ホールカル家との紛争」の解説
さて、マルーワー地方を支配したホールカル家とは、マハーダージーの時代から紛争を繰り返していたが、ダウラト・ラーオの時代にはそれがさらに悪化した。 1797年1月、ホールカル家の当主トゥコージー・ラーオ・ホールカルは息子のカーシー・ラーオ・ホールカルに譲位したが、統治者としては不適格だったため、弟のマルハール・ラーオ・ホールカル、ヤシュワント・ラーオ・ホールカル、ヴィトージー・ラーオ・ホールカルらが反乱を起こすこととなった。 その際、ダウラト・ラーオは危機に陥ったカーシー・ラーオに援助を求められた。シンディア家にとってもまた、北インドにおけるホールカル家の勢力増長は悩ましい話だったので、50万ルピーの支払いで合意した。ダウラト・ラーオは軍を派遣し、同年9月24日にマルハール・ラーオルをプネーで攻撃し、彼を殺害した。 しかし、ヤシュワント・ラーオ・ホールカルとヴィトージー・ラーオ・ホールカルはプネーを逃げることに成功し、前者はナーグプルへ、後者はコールハープルへとそれぞれ逃げた。ダウラト・ラーオはナーグプル候ラグージー・ボーンスレー2世にヤシュワント・ラーオの逮捕を要請し、1798年2月20日に彼は捕えられた。 とはいえ、同年4月6日にヤシュワント・ラーオは再び逃げ、1799年1月にはカーシー・ラーオの廃位を宣言した。
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