ヘンドリック・ホルツィウスとは? わかりやすく解説

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ヘンドリック・ホルツィウス

(ヘンドリク・ホルツィウス から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/26 01:02 UTC 版)

ヘンドリック・ホルツィウス
Hendrik Goltzius
『自画像』
生誕 1558年
フェンロー近郊
死没 1617年1月1日
ハールレム
著名な実績 版画・絵画

ヘンドリック・ホルツィウスHendrik Goltzius, 1558年 - 1617年1月1日)は、オランダ版画家素描家画家ユーリヒ公国のMillebrechtで生まれた。ホルツィウスはバロック初期のオランダのエングレービングの代表的作家で、輝かしい才能と革新的技術をもっていた。

生涯

ホルツィウスは数年間、父親の下でガラス彩色の勉強をした後、オランダから亡命していた版画家ディルク・コーンヘルトにビュランの技術を教わった。コールンヘルトはさほど実績もない人物で、ホルツィウスはすぐに師匠を追い抜いたが、師匠と弟子の立場は守り続けた。コールンヘルトの弟子であったアントウェルペンの、版画出版者のフィリップ・ハレに雇われ、ルクレティアの生涯を描いた連作版画を制作した。

21歳の時、ホルツィウスはいささか年のいった未亡人と結婚した。彼女の出資でホルツィウスはハールレムに店を構えた。しかし、妻との関係は良好とはいえず、ホルツィウスは健康を害するまでに至った。1590年、ホルツィウスは思い立ってドイツ経由でイタリアに旅行し、そこで見たミケランジェロの絵に強い衝撃を受けた。ハールレムに戻った時には健康も回復していて、それから死ぬまでその地で作品を作り続けた。

『ホラティウス・コクレス』(1586年)

評価

ホルツィウスのことを、彼が尊敬したミケランジェロの風変わりなイミテーションと断じる意見もあるようだが、ホルツィウスの肖像画(ほとんどがミニアチュールである)は、仕上がり具合からも人物の正しい把握からも、なかなかの出来で、その中でもとくに実物大の自画像はきわだっている。

ホルツィウスは「膨らんだ線」の使用に関してほとんど前例のないレヴェルに達している。遠景からの諧調効果を生むために、ビュランはより厚く、薄い線を描くよう扱われている。ホルツィウスは「点と菱形」の技法のパイオニアで、諧調の陰影をより精密にするために、点は格子模様によって作られた菱形の空間の中央に打たれていた。

ホルスタインはホルツィウス作の版画を388点としているが、彼がデザインを提供して他の版画家たちが製作したものは574点以上あると言っている。

ビュランの技術に関する限り、ホルツィウスはアルブレヒト・デューラーにひけを取らないのかも知れないが、それ以外の技術は、他のすぐれた版画家たちに及ばない。それでも、突飛さと過度の虚飾はそれを補って余りある。作品も美しく、自由奔放である。ホルツィウスはバルトロメウス・スプランヘルの描いた絵の版画化で(後には彼自身の作品で)名声を高めた。

『人類の堕落』(1616年)

ホルツィウスは42歳の時から絵を描きはじめ、そのいくつかはウィーンの帝国コレクションにあるものの、この分野ではとくに傑出したものは見あたらないように思える。キアロスクーロ版画も僅かながら作っている。

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