プロフェッショナル・レスリング藤原組とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > プロフェッショナル・レスリング藤原組の意味・解説 

藤原組

(プロフェッショナル・レスリング藤原組 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/09 02:44 UTC 版)

プロフェッショナルレスリング藤原組(プロフェッショナルレスリングふじわらぐみ)は、かつて存在した日本プロレス団体

歴史

1991年1月、選手会主体で再発足した第2次UWFであったが経営方式を巡って所属選手とフロントの対立が原因で解散。その中でも前田日明に距離を置いていた選手が中心に集まり、どこの派閥にも属していなかった藤原喜明が、その若手選手達を活かせてやりたいと新たなプロレス団体を設立することを発表[1]3月4日後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。また、UWFの象徴であったカール・ゴッチが最高顧問に就任。設立当初の団体名は新UWF藤原組(しんユー・ダブリュー・エフふじわらぐみ)と称した後、団体名をプロフェッショナルレスリング藤原組(プロフェッショナルレスリングふじわらぐみ)に改称。UWFでレフェリーとブッカーを担当していたミスター空中が藤原組のレフェリーとブッカーを担当することになり、UWF時代のアメリカでの招聘ルートは藤原組に引き継がれた。3月13日、藤原組のメインスポンサーであるメガネスーパーが設立したSWSとの業務提携を発表[2]

このSWSとの業務提携を受けて、藤原組とSWSの間で当初「1か月のうちに1週間をSWSが拘束して興行に参戦する」という予定が組まれたが、1991年4月1日に神戸大会で発生した鈴木みのるアポロ菅原戦での不可解な試合放棄事件以降、SWSと藤原組の関係は事実上凍結してしまい、藤原組のSWSへの参戦は数回のみで終わっている。

1992年4月19日東京体育館大会で船木誠勝対元ボクシング4階級王者のロベルト・デュランによる異種格闘技戦を実現させたことで話題を呼んだ。10月4日東京ドーム大会を開催。11月、格闘技的な路線を志向する船木誠勝鈴木みのるらと藤原の間で溝が深まる。12月、船木、鈴木、冨宅祐輔高橋和生柳澤龍志が退団してパンクラスの設立を発表[3]。船木が後に語ったところでは秋頃に藤原から「来年はメガネスーパーが契約してくれないかもしれない」としてSWS[4]との合流を検討していることを告げられてしまい、鈴木を解雇するという話にまで発展して船木が反対したところに藤原が「もうダメだな」と事実上の解散を決めたという[5]

ほとんどの選手が離脱したため、所属選手が藤原と石川雄規だけになってしまう危機に見舞われるが、逆に2人だけという状況がファンの支持を受けて崩壊の危機を乗り越える。以降従来のUWFスタイルを薄めつつ純プロレスに接近する路線へ転換。メガネスーパーがメインスポンサーから降りるも、新人選手が次々とデビューして選手層も増え苦しいながらも団体を存続させていた。

1993年6月1日、後楽園ホールで脳腫瘍のため死去(1992年6月18日)した空中の追悼興行「TRY AGAIN〜ミスター空中追悼興行〜」が開催された。

1995年、スポンサーが一部の所属選手を除き大幅なリストラを提言したことで、それに反発した藤原を除く所属選手全員が退団することを発表。11月19日横浜文化体育館大会を最後に藤原を除く所属選手全員が退団。12月、石川らが格闘探偵団バトラーツの設立を発表。

現在はプロレス団体としては機能しておらず藤原の個人事務所「藤原組(ふじわらぐみ)」になっている。

所属選手

歴代所属選手

歴代スタッフ

来日外国人選手

脚注

  1. ^ 後日、藤原喜明は「当初はクーデター騒動を機にプロレスから身を引こうかとも考えていた」と語っている。
  2. ^ 実質的に藤原組はメガネスーパーの傘下団体となり、その縁でSWS谷津嘉章を仲介役として東欧諸国のレスリング選手を招聘していた。
  3. ^ ベースボール・マガジン社格闘技通信』pp4 - 7
  4. ^ この時点でSWSは既に崩壊している。
  5. ^ 船木誠勝が語る藤原組離脱 「北尾八百長発言」SWS騒動に左右され…またも後味の悪い結末」『東京スポーツ』2021年6月13日。2021年6月18日閲覧。

プロフェッショナルレスリング藤原組

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:41 UTC 版)

田中稔 (プロレスラー)」の記事における「プロフェッショナルレスリング藤原組」の解説

器械体操シュートボクシング経験後、1993年にプロフェッショナルレスリング藤原組に入門1994年1月にマーク・アシュフォード戦でデビューし同年2月にはリングス参戦

※この「プロフェッショナルレスリング藤原組」の解説は、「田中稔 (プロレスラー)」の解説の一部です。
「プロフェッショナルレスリング藤原組」を含む「田中稔 (プロレスラー)」の記事については、「田中稔 (プロレスラー)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「プロフェッショナル・レスリング藤原組」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「プロフェッショナル・レスリング藤原組」の関連用語

プロフェッショナル・レスリング藤原組のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



プロフェッショナル・レスリング藤原組のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤原組 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの田中稔 (プロレスラー) (改訂履歴)、高橋義生 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS