プリスカ_(ローマ皇后)とは? わかりやすく解説

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プリスカ (ローマ皇后)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/04 03:18 UTC 版)

プリスカ
Prisca
クロアチアスプリトディオクレティアヌス宮殿にある浮き彫り。皇后プリスカを描いたものと推測されている。
在位 284年 – 305年

全名 アウレリア・プリスカ
Aurelia Prisca
称号 ローマ皇后
出生 不明
死去 315年
配偶者 ディオクレティアヌス
子女 ガレリア・ウァレリア
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ディオクレティアヌス宮殿で行われた歴史再現イベントにおいて、ディオクレティアヌスとプリスカを演じる役者
プリスカの氏族名英語版と称号(AVRELIAE PRISCAE NOBILISSIMAE FEMINAE、最も高貴な女性アウレリア・プリスカ)が刻まれている、ユーピテル神殿に由来するスポリア英語版(蔵:スプリト考古学博物館英語版[1]

アウレリア・プリスカラテン語: Aurelia Prisca、生年不明 - 315年)は、ローマ皇帝ディオクレティアヌス皇后

経歴

プリスカの生年は不明である。ディオクレティアヌスがローマ皇帝に即位したときには既に結婚しており、娘のガレリア・ウァレリアも誕生していた。プリスカには、通常ローマ皇帝一族の女性に贈られる「アウグスタ」(Augusta)や、ローマ皇后に贈られる「カエサリッサ」(Caesarissa)などの名誉称号がなく、その代わりに「ノビリッシマ・フェミナ」(Nobilissima Femina、最も高貴な女性)という称号が与えられていた[2][1]西洋古代史学者のロタール・ヴィッケルトドイツ語版は、1974年に、娘であるガレリア・ウァレリアの名前に基づいて、プリスカの氏族名英語版は「ガレリア英語版」であるとする説を立てた。ウァレリアは後にガレリウスと結婚するが、彼が娘婿に選ばれ、ディオクレティアヌスの後継者に位置付けられたのも、プリスカがガレリア氏族であり、ガレリウスと親族関係にあったためと考えられている[3]。一方で、ダルマティア属州サロナにあったユーピテル神殿の碑文では、彼女の名前は「アウレリア・プリスカ」と記されている[1]作家のバイロン・ウォルドロンは、プリスカの名に「アウレリア」が加えられたことについて、 ディオクレティアヌスと共同皇帝(西方正帝)であるマクシミアヌスが両者の絆を強化するために、互いの名である「ウァレリウス」と「アウレリウス」を交換したことで生じたと主張している[4]

305年、ディオクレティアヌスが退位に伴ってスパラトゥムに身を寄せると、プリスカはディオクレティアヌスの跡を継いで東方正帝となったガレリウス夫妻とともにテッサロニキに移った。ガレリウスが311年に亡くなってからは、娘のガレリア・ウァレリアとともにリキニウスの元へ赴いた。しかし、ほどなくして2人はリキニウスの元から逃げ、ガレリウスの甥であるマクシミヌス・ダイアに身を寄せるようになった。だが、マクシミヌスから求婚されたウァレリアが、その申し出を断ったために彼の怒りを買い、シリア属州に幽閉されて財産を没収された。リキニウスとの権力闘争に敗れてマクシミヌスが死去すると、リキニウスはプリスカ、ウァレリア両名に対して死刑を命じ、315年、2人は首を刎ねられて処刑された[5]

信仰

キリスト教著述家のルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウスは、プリスカと娘のガレリア・ウァレリアが、ディオクレティアヌスによる303年の大迫害英語版の際に、ローマの神々に対する犠牲を捧げることで「穢されることを強要された」と記した[6]。ラクタンティウスがこのような記述を残した裏には、2人がキリスト教徒だったか、キリスト教へ好意的な態度を示していたか、いずれかの理由があると推測されている[5]。キリスト教の聖人に列せられているセレナ英語版アレクサンドラ英語版は、どちらもディオクレティアヌスの皇后として伝説が語られている。

脚注

  1. ^ a b c Jeličić-Radonić, Jasna (August 15, 2008). “AVRELIA PRISCA”. Prilozi Povijesti Umjetnosti U Dalmaciji 41 (1): 5–25. https://hrcak.srce.hr/clanak/161582. 
  2. ^ Waldron, Byron Lloyd (2018年). “Diocletian, Hereditary Succession and the Tetrarchic Dynasty”. Core.ac.uk. p. 183-184. 2024年10月6日閲覧。
  3. ^ Wickert, Lothar (September 26, 2016). “Neue Forschungen zum römischen Principat [New Research on the Roman Principate]”. In Temporini, Hildegard (ドイツ語). Politische Geschichte (Allgemeines) [Political History (General)]. 1 (eBook ed.). De Gruyter. pp. 59. ISBN 9783110833133. https://books.google.com/books?id=84WoDwAAQBAJ 2024年10月4日閲覧。 
  4. ^ Waldron, Byron. Dynastic Politics in the Age of Diocletian, AD 284-311. Edinburgh University Press. pp. 52-53, 203-204. ISBN 9781474498678. https://dokumen.pub/dynastic-politics-in-the-age-of-diocletian-ad-284-311-9781474498678.html 
  5. ^ a b Jones, Martindale & Morris, p. 726.
  6. ^ Lactantius, De mortibus persecutorum 15,1.

参考文献

王室の称号
先代
マグニア・ウルビカ英語版
ローマ皇后
284年–305年
共同統治者 マグニア・ウルビカ (284年–285年)
エウトロピア (286年–305年)
次代
ガレリア・ウァレリア
ガレリウス妃)
次代
フラウィア・マクシミアナ・テオドラ
コンスタンティウス・クロルス妃)



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