フラウィア・ユリア・コンスタンティア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/15 13:48 UTC 版)
| フラウィア・ユリア・コンスタンティア Flavia Iulia Constantia |
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| ローマ皇后 | |
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フラウィア・ユリア・コンスタンティアの想像図(1587年)
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| 在位 | 313年 – 324年 |
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| 全名 | フラウィア・ユリア・コンスタンティア[1] |
| 出生 | 293年以降 |
| 死去 | 330年頃 |
| 配偶者 | リキニウス |
| 子女 | リキニウス2世 |
| 家名 | コンスタンティヌス朝 |
| 父親 | コンスタンティウス・クロルス |
| 母親 | フラウィア・マクシミアナ・テオドラ |
フラウィア・ユリア・コンスタンティア(ラテン語: Flavia Iulia Constantia、ギリシア語: Φλαβία Ιουλία Κωνσταντία、293年以降 - 330年頃)は、ローマ皇帝リキニウスの皇后。コンスタンティウス・クロルスとフラウィア・マクシミアナ・テオドラの娘であり、コンスタンティヌス1世の異母妹である。
経歴
コンスタンティアは、西方正帝コンスタンティウス・クロルスと皇后フラウィア・マクシミアナ・テオドラの6人の子供の1人である。彼女の生年については記録が残されていないが、少なくともコンスタンティウス・クロルスとテオドラが結婚した293年以降であることは確実である[2]。兄弟にはフラウィウス・ダルマティウスやユリウス・コンスタンティウスなどがいたが[3]、その他、前妻である聖ヘレナとの子・コンスタンティヌス1世も異母兄として関わりがあった。
313年、コンスタンティヌス1世は、共同皇帝リキニウスとのメディオラヌムでの会合に際して、コンスタンティアを彼に嫁がせた[4]。315年にリキニウス2世を儲け、316年にコンスタンティヌス1世とリキニウスの対立が深まると、異母兄よりも夫の側に留まった。一旦は両者が和解したものの、324年には再び争いが発生し、リキニウスは敗北を喫した。コンスタンティアの取り計らいもあり、当初はコンスタンティヌス1世もリキニウスの罪を赦していたが、325年に一転して彼の処刑を命じ、リキニウスは殺害された。加えて、息子のリキニウス2世も翌年処刑されたため、コンスタンティアの受けた衝撃は大きかった。2人を失ってからの数年間、コンスタンティアはコンスタンティヌス1世の宮廷で過ごし、「ノビリッシマ・フェミナ」(Nobilissima Femina、最も高貴な女性)の称号を与えられている。彼女はコンスタンティヌス1世から深い寵愛を受けており、後世彼によって発行された硬貨には、「コンスタンティア、コンスタンティヌス・アウグストゥスの妹」(Constantia Soror Constantini AVG)と刻み込まれていた。
コンスタンティアはキリスト教に改宗しており[5]、325年の第1ニカイア公会議ではアリウス派を支持する動きを見せていた[6]
脚注
- ^ Pohlsander 1993, p. 151.
- ^ Pohlsander 1993, p. 153.
- ^ Jones, Martindale & Morris, p. 895.
- ^ Jones, Martindale & Morris, p. 221.
- ^ Jerome, Epist., 133.4; Tyrannius Rufinus, Hist. Eccl. 1.11.
- ^ Philostorgius, Hist. Eccl. 1.9.
参考文献
- Jones, A.H.M.; J.R. Martindale & J. Morris (1971). Prosopography of the Later Roman Empire. 1. Cambridge University Press. ISBN 0-521-07233-6
- Pohlsander, Hans A. (1993). “CONSTANTIA”. Ancient Society 24: 151–167. doi:10.2143/AS.24.0.2005864. JSTOR 44079527.
外部リンク
- Constantia, at De Imperatoribus Romanis
| 王室の称号 | ||
|---|---|---|
| 先代 ファウスタ |
ローマ皇后 313年–324年 共同統治者 ファウスタ (313年–324年) |
次代 ファウスタ |
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