フォー・スター・レコード
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「パッツィー・クライン」の記事における「フォー・スター・レコード」の解説
彼女の2番目のマネージャーのビル・ピアは彼女のミドル・ネームであり彼女の母親の旧姓であるパターソンからパッツィと名付けた。1955年、当時彼が提携していたフォー・スター・レコードと契約。フォー・スターはデッカ・レコードの子会社のコーラル・レコードと契約していた。3年後、デッカと契約。 当初の契約ではフォー・スターの作曲家にのみ曲を書いてもらうことができた。彼女はこの契約を後悔するが誰も彼女に同意しなかった。フォー・スターでの彼女の最初のレコードは『A Church, A Courtroom & Then Good-Bye 』であまり注目されなかったが、これにより『グランド・オール・オープリー』に出演することができた。オープリーはレコードとしての仕事ではなかったため、契約に違反することなく彼女の歌いたい曲を歌うことができた。これにより抑圧されてきた気持ちも幾分か緩和された。 1955年から1957年、『Fingerprints 』、『Pick Me Up On Your Way Down 』、『Don't Ever Leave Me Again 』、『A Stranger In My Arms 』などのホンキートンクを録音した。うち後者2曲は彼女も作曲に参加した。どの曲もそれほどの成功はせず、ロカビリーに挑戦することにした。 デッカ・レコードのプロデューサーであるオウエン・ブラッドリーによると、フォー・スターの作曲家達は彼女の将来性を予見していた。ブラッドリーは彼女の声はポップ・ミュージックにとてもよく合うと思っていたが、ピアやフォー・スターのプロデューサー達同様彼女は契約にあるようにカントリー・ミュージックしか録音しないと主張した。何度も彼女に、代表曲になるであろうトーチ・ソングを歌わせようとしたが、カントリーに使用されるバンジョーやスティール・ギターがないと彼女は歌えなかった。フォー・スターでは51曲を録音した。
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