フォルトゥン・ガルセスとは? わかりやすく解説

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フォルトゥン・ガルセス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 09:56 UTC 版)

フォルトゥン・ガルセス
Fortún Garcés
ナバラ国王
在位 870/82年 - 905年

出生 9世紀
死去 922年
パンプローナ王国レイレ修道院
埋葬 パンプローナ王国レイレ修道院
配偶者 アウリア
子女 イニゴ・フォルトゥネス
アスナール・フォルトゥネス
ベラスコ・フォルトゥネス
ロペ・フォルトゥネス
オネカ・フォルトゥネス
家名 イニゴ家
王朝 イニゴ朝
父親 ガルシア・イニゲス
母親 ウラカ
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レイレ修道院の王室霊廟

フォルトゥン・ガルセススペイン語:Fortún Garcés, バスク語:Orti Gartzez, ? - 922年)は、ナバラ国王(パンプローナ国王)(在位:870/82年 - 905年)。独眼王el Tuerto)、のち修道士王el Monje)と呼ばれた。アラブの記録に「فرتون بن غرسية」(Fortoûn ibn Garsiya)として記されている。パンプローナ王ガルシア・イニゲスの長男で、初代パンプローナ王イニゴ・アリスタの孫。約30年間王位についていたが、イニゴ家最後のパンプローナ王となった。

生涯

フォルトゥン・ガルセスはパンプローナ王ガルシア・イニゲスの長男として生まれたが、生年は不明である[1]。母ウラカはバヌ・カシ家の家長ムサ・イブン・ムサ・アル・カサウィの孫娘であったとも考えられている[2]。若年期のフォルトゥン・ガルセスについてはほとんど知られていない。

父王ガルシア・イニゲスはアストゥリアス王国とより緊密な関係を結ぼうとし、自身とパンプローナ王国はエブロ川近くの領地を支配していたバヌ・カシ家から距離を置いた。ガルシア・イニゲスはイスラム勢力であるバヌ・カシ家やコルドバアミールムハンマド1世との度重なる武力衝突に巻き込まれた[3]。ムハンマド1世は860年にパンプローナを侵略し、ミラグロにおいてフォルトゥン・ガルセスを娘のオネカとともに捕らえ、人質としてコルドバに連行した[4][1]サラゴサワーリーであったムハンマド・イブン・ルブはアイバルの城を包囲し、最終的に破壊し、これによりガルシア・イニゲスが死去した。父ガルシア・イニゲスの死後、フォルトゥン・ガルセスはパンプローナに戻ることを許され、パンプローナ王位についた[5]。フォルトゥン・ガルセスはバヌ・カシ家の意向に沿った政策を行い、パンプローナ貴族の怒りを引き起こした。フォルトゥン・ガルセスはしばしばレイレ修道院に隠棲することとなった。

905年、パンプローナ貴族はフォルトゥン・ガルセスに代わりにサンチョ・ガルセスを王として選び、劇的な変化が起こった[6]。この決定の背後には、サンチョ・ガルセスが非常に評判が高く軍事的に名声を得ており、パリャルス伯・リバゴルサ伯レイモンド1世、アラゴン伯ガリンド2世・アスナーレスアストゥリアスアルフォンソ3世などの重要な人物の支持を得ていたという事実があった[6]

フォルトゥン・ガルセスは905年にレイレ修道院に引退し[6]、そこで922年に死去した[7]

結婚と子女

フォルトゥン・ガルセスはアウリアという女性と結婚したが、アウリアの出自については資料がなく、様々な推測がなされている[8][9]。『ロダ写本』によると、2人の間に以下の子女が生まれた[10]

  • イニゴ・フォルトゥネス - ヒメノ家のガルシア・ヒメネスとオネカ・レベレ・デ・サングエサの娘サンチャ・ガルセスと結婚した。サンチャ・ガルセスは後にアラゴン伯ガリンド2世・アスナーレスと再婚した。
  • アスナール・フォルトゥネス
  • ベラスコ・フォルトゥネス - 娘ヒメナはガルシア・ヒメネスの息子イニゴ・ガルセスと結婚した
  • ロペ・フォルトゥネス
  • オネカ・フォルトゥネス - 『ロダ写本』によると、最初にコルドバの7代アミールアブドゥッラー・イブン・ムハンマドと結婚し[11]、のちにララウン領主アスナール・サンチェスと再婚してトダ・アスナーレスおよびサンチャ・アスナーレスを含む3子を産んだという[1]。しかし、アブドゥッラーと結婚したオネカをフォルトゥン・ガルセスの娘とした場合、この結婚の順番には問題がある[12]

脚注

  1. ^ a b c Martínez Díez 2007, p. 25.
  2. ^ Salazar y Acha 2006, pp. 33–34.
  3. ^ Martínez Díez 2007, p. 23.
  4. ^ Collins 2012, p. 45.
  5. ^ Menéndez Pidal 1999, p. 104.
  6. ^ a b c Martínez Díez 2007, p. 26.
  7. ^ Salazar y Acha 2006, p. 33.
  8. ^ Settipani 2004, p. 116.
  9. ^ Rei 2011–2012, pp. 44–45.
  10. ^ Cañada Juste 2013, p. 482.
  11. ^ Kosto 2017, p. 79.
  12. ^ Cañada Juste 2013.

参考文献




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