ピエロ・タルフィー(イタリア)
鈴鹿サーキットがつくられて、1963年に初めての日本グランプリ・レースが行われた際に来日、参加者たちに走り方を指導したことでも知られる。タルフィーはレース生活のほとんどを通じて2輪、4輪の双方にかかわりつづけた。2輸は10代のころからライダーとして走り、30年代の後半から50年代半ばまで、ジレラ・チームのマネージャーを務めた。その間、自身では自動車レースのドライバーとして活躍し、46年にチシタリアが創設されたときには、コンサルタントエンジニア兼テストドライバーとして多くの貢献をしている。51年にはカレラ・パナメリカーナ、52年のスイスGPではそれぞれフェラーリを駆って優勝している。これほど多彩な経歴をもつタルフィーにして、なかなか勝てなかったのがミレ・ミリアであった。その最後となった57年、彼は念願の優勝を果たし、妻イザベラとの約束どおりレースから引退を決めた。
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