ヒェミー・ライプツィヒ誕生から東西ドイツ合併まで
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BSGヒェミー・ライプツィヒと名称を変更して初めてのシーズンとなった1950-51年シーズンに、DDRオーバーリーガ(旧東独1部)で優勝。最終節でBSGテュービネ・エアフルト (BSG Turbine Erfurt) を逆転しての優勝であった。1954年に選手がSCロコモティーヴェ・ライプツィヒ (SC Lokomotive Leipzig) と契約したことからチームは解散するが、1963年に復活。復活後初めてのシーズンとなる1963-64年シーズンに、僅差でSCエンポル・ロストック(SC Empor Rostock、現在のハンザ・ロストック)を抑えてリーグ戦優勝を果たした。 1966年に2度目のカップ戦優勝を果たしたのを最後に、60年代後半よりクラブは低迷期に入った。1969-70年のシーズンで4位になったものの、1970-71年シーズンにはついに14位で2部降格。その後、70年代・80年代は典型的なエレベータークラブとなり、1部と2部を幾度も往復した。
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