バウルとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 16:00 UTC 版)
タゴールが、バウルの歌に触れそれに感動して書いた詩が、ノーベル文学賞受賞につながった。その関係で、大学は常々バウルを招いており、年一回のメラ(見本市、祭り)にバウルたちを招待していた。シュナトン・ダシュ・バウル(Sanatan Das Baul)はその一人である。秋野不矩も1961年(昭和36年)頃に同大学でバウルと邂逅しており、彫刻のビスカ教授がバウルを招待しておりビスカ教授がバウルに歌を習っていた様子を記載している。秋野は「私はダスの歌をカセットテープに取って帰った、。時々インドの絵を描きながらそれを聞いている。」と自著の『画文集 バウルの歌』で述べている。この際のビスカ教授が招待したバウルは「デペンドラナート・ダス」。。また、バウルの調査に赴いた村瀬智は、同大学の手厚い支援を受け、また、同大学職員からベンガル語を学んだという。
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