ハダ部・ホイファ部攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:48 UTC 版)
その後、アムール川周辺にあるフルハ部と朝貢関係を結んだヌルハチは、次にハダ部の攻略にかかる。ハダ部もまたイェへとマンジュ国の間で板挟みの状態にあった。1599年5月、イェへ部のナリンブルはハダ部を攻撃し始めた。ハダ部の首長のメンゲブル (ᠮᡝᠩᡤᡝᠪᡠᠯᡠ, menggebulu)は人質と共にヌルハチに援軍の要請を送った。ヌルハチはこれに応じてシュルガチ (ᡧᡠᡵᡤᠠᠴᡳ, šurgaci)と2000の兵を差し向けるも、急遽自ら兵を率いてハダを攻撃して支配下に置き、メンゲブルを捕虜にした。その後、メンゲブルは妾と通じたという罪で死刑になる。ヌルハチはハダの住民を全てマンジュ国に連れ去り、ここに事実上ハダ部は滅んだ。 ハダ部は明の対女真対策の要地であり、これを滅ぼしたヌルハチに対して明は経済制裁をちらつかせるなどの圧力をかけた。そこでヌルハチは、メンゲブルの長男のウルグダイとハダの住民を元の地に帰したが、イェへ部のナリムブルがハダへの侵略を繰り返したために、結局ハダの住民はマンジュ国に戻されることになった。ウルグダイはその後ハダの地を踏むことなく、ヌルハチの忠臣となって活躍した。 1607年、ホイファも内乱に乗じてヌルハチに制圧され、滅亡を迎えた。この前年に日本軍が撤兵したこともあり、明はようやくヌルハチに危機感を抱き始め、海西女真のイェヘ部の後押しをすることでヌルハチに対抗しようとした。
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