デリーの戦い (1757年)とは? わかりやすく解説

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デリーの戦い (1757年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 21:15 UTC 版)

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デリーの戦い
Battle of Delhi
戦争:アフガン・マラーター戦争
年月日1757年8月11日 - 8月30日
場所インドデリー
結果マラーターの勝利
交戦勢力
マラーター王国 ローヒラー族
指導者・指揮官
ラグナート・ラーオ
マルハール・ラーオ・ホールカル
ガーズィー・ウッディーン・ハーン
ナジーブ・ハーン
クトゥブ・シャー
ムッラー・アマーン・ハーン
戦力
30,000人 7,500人

デリーの戦い(デリーのたたかい、英語:Battle of Delhi)は、1757年8月11日から8月30日までインドデリーにおいて、マラーター王国アフガン勢力のローヒラー族の間で行われた戦闘。

戦闘に至る経緯

1756年12月アフガンアフマド・シャー・ドゥッラーニーマラーターに敵対するムガル帝国の宮廷内勢力の要請を受け、その領土に向けて遠征した[1]1757年1月にアフマド・シャーはその首都デリーを占領し、2月には略奪と殺戮を行い、マトゥラーヴリンダーヴァンでも行った。4月に彼は撤退し(その帰途、シク教徒の聖地であるアムリトサル黄金寺院を破壊した)、皇帝アーラムギール2世は帝位を保ったが、ローヒラー族ナジーブ・ハーンが宮廷の実権を握った[1]

このアフガン軍の行動に対し、マラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオはすぐに弟ラグナート・ラーオをデリーに送った[1]。また、その過程でホールカル家の当主マルハール・ラーオ・ホールカルとも合流し、その数は100,000人に上った。

同年7月末、マラーター軍はデリーへ到着し、デリー城の反対側、ジャムナー川の川岸に陣を張った[2]。ラグナート・ラーオ率いるマラーターの主力軍はカルナールアンバーラーに近い、デリーからおよそ30キロ離れた離れた地域に布陣した[2]

一方、ナジーブ・ハーンは武将クトゥブ・シャーとムッラー・アマーン・ハーンとともにデリー城に籠城し、マラーターがデリーに侵入しないように警戒していた。

戦闘とナジーブ・ハーンの追放

アフマド・ハーン・バンガシュ

8月10日、マラーター軍30,000人はデリー郊外に侵入、翌11日にローヒラー軍との間で戦闘が起きた。マラーター軍には帝国の宰相 ガーズィー・ウッディーン・ハーンとアフマド・ハーン・バンガシュが加わった。これに対し、ナジーブ・ハーンは精鋭の歩兵2,500人をクトゥブ・シャーとムッラー・アマーン・ハーンに預け、自身は5000人と砲兵を率いてこれを迎撃した。

戦いは2週間ほど続き、ナジーブ・ハーンはその結果マラーター軍に講和を申し入れた。 ラグナート・ラーオはナジーブ・ハーンに保釈の代償として500万ルピーを払うように命じたが、ナジーブ・ハーンはこれを拒否、50万ルピーで了承させた。また、同時にデリーへ決して帰還しないこと、マラーターの城塞を決して奪取しないことを約束させられた。その後、ラグナート・ラーオ、マルハール・ラーオ、ガーズィー・ウッディーン・ハーンは会議したのち、ナジーブ・ハーンを釈放、デリーから追放することにし、交渉が締結された。

8月30日、ラグナート・ラーオは全軍にすべての戦闘を終結するよう命じた[2]

戦闘後の経過

マラーターは今やデリーの支配者となり、アーラムギール2世をも保護下に置いた。ラグナート・ラーオはアンタージー・マンケーシュワルにデリーを任せ、マルハール・ラーオとともにガンガー・ドアーブ地方を制圧した。

1758年3月、ラグナート・ラーオはパンジャーブのラホールへと兵を進め、シク教徒の援助も得て、4月20日ラホールを奪い(ラホールの戦い)、アフマド・シャーの息子ティムール・ミールザーを追い払った[1]。同月28日にはアトックを(アトックの戦い)、さらに5月8日にはペシャーワルを占領した(ペシャーワルの戦い)。これがマラーターのインド北西部征服である。

そして、マラーター軍がパンジャーブ一帯を占領したのち、同月にラグナート・ラーオはラホールからプネーへと帰還した[1]。だが、このマラーターの征服活動は活動は結果として、1759年末から始まるアフマド・シャー・ドゥッラーニーの遠征に繋がり、ひいては第三次パーニーパットの戦いに繋がった。

脚注

  1. ^ a b c d e 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.218
  2. ^ a b c Advanced Study in the History of Modern India 1707-1813 - Jaswant Lal Mehta - Google Books

参考文献

  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年。 

関連項目




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