ティモレオンとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/09 19:17 UTC 版)
詳細は「シュラクサイ包囲戦 (紀元前343年)」を参照 紀元前367年にディオニュシオス1世は死亡し、息子のディオニュシオス2世が後を継いでいたが、シュラクサイ市民は彼に反感を持っていた。レオンティノイ(現在のレンティーニ)の僭主ヒケタスはカルタゴと同盟し、ヒケタスをシュラクサイの僭主の座につけ、シケリアを支配しようとした。ヒケタスの支援のためにカルタゴはハンノを送った。レオンティノイ・カルタゴ連合軍は、ディオニュシオスが立て篭もるオルティジャ島を除き、シュラクサイを占領した。しかしハンノはコリントスのティモレオンがシュラクサイ市民の救援のために到着するのを阻止できなかった。カルタゴはハンノに代えて、マゴを司令官とした。他方、ディオニュシオスはティモレオンに降伏し、オリティジャ島を明け渡した。ヒケタスはカルタゴの支援を依頼し、マゴは150隻の三段櫂船と50,000 - 60,000の兵と共にシュラクサイに到着した。 コリントス軍はオルティジャ島を固守し、定期的にカルタゴ軍を攻撃してきた。ティモレンはその補給をカタナ(現在のカターニア)からの海上輸送に頼っていたため、マゴとヒケタスはカタナを攻撃することを決定した。オルティージャ島のコリントス軍指揮官であるネオンは、この隙にシュラクサイを包囲する連合軍を撃破し、占領されていたアカルディナ地区を奪回した。マゴとヒケタスはカタナ近くまで迫っていたが、この知らせを聞いて転進した。シケリアのギリシア都市はティモレオンに加担し、また自身が率いる傭兵の裏切りの恐れもあったために、撤退を決意した。カルタゴに戻ったマゴは自決し、彼の臆病さと失敗に憤慨したカルタゴ市民のために、その死体は串刺しにされた。 マゴの自殺のしばらく後の紀元前340年、ハンノがカルタゴの指導者となり、ハンノ家による支配が紀元前308年まで続くことになる。
※この「ティモレオンとの戦い」の解説は、「マゴ3世」の解説の一部です。
「ティモレオンとの戦い」を含む「マゴ3世」の記事については、「マゴ3世」の概要を参照ください。
- ティモレオンとの戦いのページへのリンク