チェシン問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:41 UTC 版)
チェコスロバキア・ポーランド間にあったチェシン・シレジア(英語版)(現在のチェシンとチェスキー・チェシーン、ドイツ名テッシェン)は、両国から領有権主張があり(ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争(英語版))、1919年1月には両国間で戦闘が発生している(ポーランド・チェコスロバキア戦争(英語版))。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された。1920年7月のスパ会議(英語版)後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。
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