ダヴィド・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)とは? わかりやすく解説

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ダヴィド・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/28 22:22 UTC 版)

ダヴィド・スヴャトスラヴィチ
Давыд Святославич
チェルニゴフ公
ダヴィド・スヴャトスラヴィチの死
在位 1097年 - 1123年

出生 1050年
死去 1123年
埋葬 チェルニゴフ救世主顕栄大聖堂
配偶者 フェオドシヤ
子女 スヴャトスラフ
ロスチスラフ
フセヴォロド
ウラジーミル
イジャスラフ
家名 リューリク家
父親 キエフ大公スヴャトスラフ2世
母親 キリキヤ
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ダヴィド・スヴャトスラヴィチロシア語: Давыд Святославич1050年頃 - 1123年)は、キエフ大公スヴャトスラフの子である。ペレヤスラヴリ公1073年 - 1076年ムーロム公:1076年 - 1093年スモレンスク公:1093年 - 1095年1096年 - 1097年ノヴゴロド公1094年 - 1095年、チェルニゴフ公:1097年 - 1123年。チェルニゴフの地(チェルニゴフ公国領)における最初の聖人(ブラゴヴェルヌィー(ru))であり、ブリャンスク聖人大聖堂において[注 1]、その記憶日ユリウス暦9月20日とされている。

生涯

1073年、父スヴャトスラフがキエフ大公となると、ペレヤスラヴリ公位を与えられた。しかし1076年に父が死ぬと、父の世襲領(ヴォチナ(ru))であるチェルニゴフの地への配置転換を余儀なくされ、スヴャトスラフはムーロムへ異動となった。1078年、チェルニゴフの覇権をめぐる戦い(ru)で、父の次のキエフ大公となっていたイジャスラフが戦死した後は、チェルニゴフはウラジーミル・モノマフが統治した。

キエフ大公フセヴォロドの死後の記述においては、ダヴィドは一時、ムスチスラフに代わってノヴゴロド公であったことが記されている。1094年、兄弟のオレグがチェルニゴフを制圧した際に、ダヴィドはスモレンスクへ向かっていたが、このとき、ノヴゴロドの人々はムスチスラフ(この時、一時的にロストフ公)にノヴゴロド公位を返還させた[1]。なお、1096年にオレグがウラジーミル・モノマフとスヴャトポルクによってチェルニゴフから追放されている。

1097年リューベチ諸公会議において、各々の父の地を受領、継承していく原則が取り決められ、ダヴィドのチェルニゴフ公位は承認された。(兄弟のオレグはチェルニゴフ公国から分離したノヴゴロド・セヴェルスキー公国ノヴゴロド・セヴェルスキー公となった)。

同年11月、ヴォルィーニ公ダヴィドが会議の決定を覆し、テレボヴリ公ヴァシリコに危害を加えた。ダヴィド(本項のダヴィド)は兄弟のオレグやウラジーミル・モノマフと共にキエフへ行くと、キエフ大公スヴャトポルク(上記のスヴャトポルク)の同意を取り付けた上で、ヴォルィーニ公ダヴィドに対する遠征を行った(ルーシ内戦 (1097年 - 1100年))。また、1100年の、ヴォルィーニ公ダヴィドに対する遠征の戦後処理会議にあたるウヴェチチ諸公会議(ru)に参加し、ヴォルィーニ(ウラジーミル・ヴォリンスキー)をヴォルィーニ公ダヴィドから没収する代償金のうち、100グリヴナを出資した。

1101年ペレムィシュリ公ヴォロダリと共にポーランドへの遠征を行った。

1103年ポロヴェツ族への対処を決議したドロプスク諸公会議に参加し、12世紀初頭のポロヴェツ族への遠征軍を組織した。1116年には、ウラジーミル・モノマフの子らと共に、ポロヴェツ族の支配下にあったドネツ川上流の諸都市を破壊し、シャルカンオルダカフカスへと追いやった。

1113年、キエフ大公スヴャトポルクが死亡した。当時の継承法(ru)に従えばキエフ大公位はダヴィドに相続されるはずだったが、ダヴィドの大公位就任は実現しなかった(キエフ大公位にはウラジーミル・モノマフが就いた)。ダヴィドとモノマフの間における権力闘争に関して記した記述はない。

1115年、ペレヤスラヴリ公ヤロポルクによる、ミンスク公グレプに対する遠征軍に参加し、ドルツクへ出兵、陥落させた。1118年にはウラジーミル・モノマフらと共にヴォルィーニ公ヤロスラフを攻め、これを降伏させている。

1123年に死亡し、チェルニゴフの救世主顕栄大聖堂(ru)に埋葬された。

妻子

妻の名はフェオドシヤ。子には以下の人物がいる。

先代
フセヴォロド1世
ペレヤスラヴリ公
1073年 - 1076年
次代
ロスチスラフ
先代
スヴャトスラフ2世
ムーロム公
1076年 - 1093年
次代
オレグ
先代
ムスチスラフ1世
ノヴゴロド公
1094年 - 1095年
次代
ムスチスラフ1世
先代
イジャスラフ
スモレンスク公
1096年 - 1097年
次代
スヴャトスラフ
先代
オレグ
チェルニゴフ公
1097年 - 1123年
次代
ヤロスラフ

脚注

注釈

  1. ^ 「ブリャンスク聖人大聖堂」はロシア語: Соборе брянских святых(前置格)の直訳による。

出典

  1. ^ Рудаков В. Е. Смоленская земля // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.

参考文献

  • Экземплярский А. В. Черниговские, князья // Русский биографический словарь : в 25 томах. — СПб.—М., 1896—1918.



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