ダンヌンツィオとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 22:18 UTC 版)
下位が詩人ダンヌンツィオと知り合ったのは1918年の夏ごろであった。1919年1月にはダンヌンツィオが日本まで飛行する計画を建て、下位の同行を求めた。この計画は結果的にフィウーメ(現リエカ)問題や政治状況に怒ったダンヌンツィオによって取りやめとなったが、アルトゥーロ・フェラーリンによって実現している(アルトゥーロ・フェラーリンによるローマ=東京飛行(イタリア語版))。 ダンヌンツィオによるフィウーメ占領後の1920年2月1日、下位はフィウーメ入りした。翌日には盛大な歓迎会が開かれるなど破格の対応を受けた。ダンヌンツィオは下位を「名誉伍長」に任命し、外部との連絡役に当たらせた。フィウーメを包囲していたイタリア軍にたびたび逮捕されたが、そのつどカヴィグリア将軍によって釈放が命じられたという。またこの時にムッソリーニとの連絡もおこなっている。その後6月にはナポリで日本文学紹介雑誌「サクラ」を創刊し、1921年までに5冊を刊行した。
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