ダンサーからシタールの奏者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 14:29 UTC 版)
「ラヴィ・シャンカル」の記事における「ダンサーからシタールの奏者へ」の解説
シャンカルは幼少期から青年期にかけて、兄とともに舞踊団のダンサーとして、欧米諸国で活動していた。シャンカルが15歳の時、舞踏団に参加したババ・アラウディン・カーン(英語版)からシタールを勧められた。3年後、舞踏団の解散に伴い、カーンの元で7年半にわたり、修業をした。シャンカルが産経新聞の石井健のインタビューで話したことによると、カーンは昔気質で気難しい人物だったが、シャンカルはダンサー時代に通訳兼ガイドとしてカーンに接していたため、自分だけには優しかったとされている。ダンサー時代は豪華なホテルに泊まったり、宴会が開かれることも珍しくなかったのに対し、シタールの修業に出ていたころはインドの不衛生な環境に置かれていた。それでも、シャンカルはカーンの人柄の良さや、「自分を浄化したい」という気持ちが強かったため、逃げ出したいとは思わなかったと石井とのインタビューの中で振り返っている。カーンの元での修業を終えたシャンカルは、デビューしてすぐにシタール奏者として人気を博した。シャンカルは石井とのインタビューの中で、ダンサー時代に西洋の知識や語学、ふるまい方を身に着けたことがスピード出世につながったと振り返っている。
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