ダヤン・ハーンの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 06:48 UTC 版)
ダヤン・ハーンによりモンゴルが再編成されると、トゥメン(万人隊)と呼ばれる6つの大部族が3つずつ左右翼に分かれて配置された。このうち、右翼のトゥメト・トゥメンは一名モンゴルジンともいい、チンギス・カン時代以前から、陰山山脈で遊牧していたネストリウス派キリスト教徒のオングト王国の後身である。 初め、ダヤン・ハーンの三男バルス・ボラト・サイン・アラクは右翼のトゥメト部に婿入りして、グン・ビリクとアルタンの2子をもうけていたが、兄のウルス・ボラト晋王(ジノン)が右翼ヨンシエブのイブラヒム(イバライ)太師(タイシ)らによって殺されたため、妻子を連れて父のもとへ逃れた。1509年秋頃、ダラン・テリグンの戦いで、ダヤン・ハーンは左翼の連合軍を率いて右翼の連合軍を破り、ウルス・ボラト晋王の仇をとるとともに内乱を鎮めた。首謀者であるイブラヒム太師はハミでトゥメト部のバヤンマラト・ダルハンによって射殺された。この戦いの後、ダヤン・ハーンはバルス・ボラト・サイン・アラクを右翼三トゥメンの晋王に任命した。
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