タガチャル (フーシン部)
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タガチャル(モンゴル語: Taγačar、中国語: 塔察児、? - 1238年)は、13世紀初頭のフーシン部出身で、モンゴル帝国の華北方面タンマチ(辺境鎮戍軍)副司令官を務めた人物。『元史』などの漢文史料では塔察児(tǎcháér)と記される。
- ^ 『元史』はタガチャルがボロクルの「従孫」であると記すが、『蒙兀児史記』などではボロクルの次男であるとする
- ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「塔察児、一名奔盞、居官山。……塔察児、其従孫也、驍勇善戰、幼直宿衛。太祖平燕、睿宗監国、聞燕京盗賊恣意残殺、直指富庶之家、載運其物、有司不能禁。乃遣塔察児・耶律楚材窮治其党、誅首悪十有六人、由是巨盜屏跡」
- ^ なお、『元史』巻146列伝33耶律楚材伝には「丙戌冬……燕多劇賊、未夕、輒曳牛車指富家、取其財物、不与則殺之。時睿宗以皇子監国、事聞、遣中使偕楚材往窮治之。楚材詢察得其姓名、皆留後親属及勢家子、尽捕下獄。其家賂中使、将緩之、楚材示以禍福、中使懼、従其言、獄具、戮十六人於市、燕民始安」とあり、タガチャルではなく耶律楚材が華北の治安維持を行ったとする。しかし、この頃の耶律楚材の地位はまだ低かったことや耶律楚材自身の著作にこの「功績」が記されてないことなどから、子孫が耶律楚材の伝記を作成する際にタガチャルの功績を剽窃して耶律楚材の功績にしてしまったものと見られている(宮2018,529-531頁)。
- ^ 松田1996年、166頁
- ^ 『聖武親征録』壬辰三月條「上至南京、令忽都忽攻之。上与太上皇北渡河、避暑於官山、速不歹抜都・忒木歹火児赤・貴由抜都・塔察児等、適与金戦、金遣兄之子曹王入質」
- ^ 松田1987年、62頁
- ^ 松田1987年、52-53頁
- ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「太宗伐金、塔察児従師、授行省兵馬都元帥、分宿衛与諸王軍士俾統之、下河東諸州郡、済河、破潼関、取陝洛。辛卯、従囲河中府、抜之。壬辰、従渡白坡。時睿宗已自西和州入興元、由武関出唐・鄧、太宗以睿宗与金兵相持久、乃遣使約期、会兵合進。即詔発諸軍至鈞州、連日大雪、睿宗与金人戦於三峰山、大破之。詔塔察児等進囲汴城。金主即以兄子曹王訛可為質、太宗与睿宗還河北。塔察児復与金兵戦於南薰門。癸巳、金主遷蔡州、塔察児復帥師囲蔡」
- ^ 松田1987年、47-48頁
- ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「甲午、滅金、遂留鎮撫中原、分兵屯大河之上、以遏宋兵。丙申、破宋光・息諸州、事聞於朝、以息州軍民三千戸賜之。戊戌卒」
- ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「子別里虎䚟、嗣為火児赤。憲宗即位、歳壬子、襲父職、総管四万戸蒙古漢軍、攻宋両淮、悉定辺地。戊午、会師囲宋襄陽、逼樊城、力戦死之」
- ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「次曰宋都䚟、至元七年、賜金虎符、襲蒙古軍万戸。八年、悉兵再攻襄陽、囲樊城、進戦鄂・岳・漢陽・江陵・帰・峡諸州、皆有功。十二年、加昭毅大将軍、受詔為隆興出征都元帥、与李恒等長駆、而宋人莫当其鋒、戦勝攻取、望風迎降、尽平江西十一城、又徇嶺南・広東。宋亡、還師、未及論功卒」
- 1 タガチャル (フーシン部)とは
- 2 タガチャル (フーシン部)の概要
- 3 フーシン部タガチャル家
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