スルドタイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/13 09:36 UTC 版)
スルドタイ(モンゴル語: Suldutai、中国語: 宋都䚟、? - 1276年)は、フーシン部出身の将軍で、13世紀半ばにモンゴル帝国の華北方面タンマチ(辺境鎮戍軍)副司令官を務めた人物。南宋国への侵攻において、江西方面に出兵した軍団の長を務めたことで知られる。
『元史』などの漢文史料では宋都䚟(sòngdōudǎi)と記される。
概要
スルドタイは「四駿」と讃えられた建国の功臣ボロクルの一族で、ヒタイ(華北)方面タンマチの指揮官タガチャルの孫として生まれた[1]。スルドタイの父のベルグテイが1258年(戊午)に南宋との戦いの中で陣没すると[2]、当初その長男でスルドタイの兄であるミリチャルがその後を継いだ[1]。ミリチャルもまた襄陽・樊城の戦いで陣没すると、至元7年(1270年)に「蒙古軍万戸」に任命されたのが弟のスルドタイであった[1]。
至元8年(1271年)にはスルドタイもまた襄陽・樊城の戦いに加わり、南宋の荊湖北路一帯(鄂州・岳州・漢陽軍・江陵府・帰州・峡州)の戦闘で功績を挙げた[1]。襄陽城の陥落により、南宋領への全面侵攻が可能となると、スルドタイは江南西路への侵攻を担当することとなった[1][3]。至元12年(1275年)7月にスルドタイを長とし、漢軍万戸武秀・張栄実・左副都元帥李恒・兵部尚書呂師夔らを配下とする軍団(行都元帥府)が編成され、スルドタイは隆興出征都元帥の称号を授けられた[1]。
スルドタイは李恒らとともに江南西路各地で勝利を重ね、11城を攻略して江南西路一帯を平定した。さらに嶺南・広東への侵攻をも計画していたが、崖山の戦いで南宋が完全に滅んだ後、論功行賞に至る前の至元13年(1276年)に亡くなってしまった[4][5]。
フーシン部タガチャル家
- ボロクル・ノヤン(Boroqul noyan >博爾忽/bóĕrhū, بورقول نويان/būrqūl nūyān)
- 行省兵馬都元帥タガチャル(Taγačar >塔察児/tǎcháér)
- 行省兵馬都元帥ベルグテイ(Belgütei >別里虎䚟/biélǐhŭdǎi)
- 蒙古軍万戸ミリチャル(Miričar >密里察児/mìlǐcháér)
- 江西道都元帥アルクイ(Alqui >阿魯灰/ālŭhuī)
- イキレテイ(Ikiretei >亦乞列歹/yìqǐlièdǎi)
- 蒙古軍万戸ベルケ・ブカ(Berke buqa >別里閣不花/biélǐgé bùhuā)
- 江西道都元帥アルクイ(Alqui >阿魯灰/ālŭhuī)
- 蒙古軍万戸スルドタイ(Suldutai >宋都䚟/sòngdōudǎi)
- 蒙古軍万戸ミリチャル(Miričar >密里察児/mìlǐcháér)
- 行省兵馬都元帥ベルグテイ(Belgütei >別里虎䚟/biélǐhŭdǎi)
- 行省兵馬都元帥タガチャル(Taγačar >塔察児/tǎcháér)
脚注
- ^ a b c d e f 堤1992,55頁
- ^ 『元史』は襄陽・樊城の戦いにおいてベルグテイは戦死したと記すが(『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「子別里虎䚟……戊午、会師囲宋襄陽、逼樊城、力戦死之」)、同年に襄陽で戦闘が行われたとの記録はなく、この記述は息子のミリチャルの死因と混同させてしまったものと考えられている(堤1992,57頁)
- ^ 『元史』巻8世祖本紀5,「[至元十二年秋七月]癸未……勅左丞相伯顔率諸将直趨臨安、右丞阿里海牙取湖南、蒙古万戸宋都帯・漢軍万戸武秀・張栄実・李恒・兵部尚書呂師夔行都元帥府、取江西」
- ^ 堤1992,56頁
- ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「次曰宋都䚟、至元七年、賜金虎符、襲蒙古軍万戸。八年、悉兵再攻襄陽、囲樊城、進戦鄂・岳・漢陽・江陵・帰・峡諸州、皆有功。十二年、加昭毅大将軍、受詔為隆興出征都元帥、与李恒等長駆、而宋人莫当其鋒、戦勝攻取、望風迎降、尽平江西十一城、又徇嶺南・広東。宋亡、還師、未及論功卒」
参考文献
- 松田孝一「河南淮北蒙古軍都万戸府考」『東洋学報』68号、1987年
- 堤一昭「元代華北のモンゴル軍団長の家系」『史林』75号、1992年
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