スキップ・スペンス
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スキップ・スペンス | |
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1966年
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基本情報 | |
出生名 | Alexander Lee Spence, Jr. |
生誕 | 1946年4月18日![]() |
出身地 | ![]() |
死没 | 1999年4月16日 (52歳没)![]() |
ジャンル |
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職業 |
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担当楽器 |
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活動期間 | 1965–1971; sporadically until 1999 |
レーベル | コロムビア・レコード |
アレクサンダー・"スキップ"・スペンス(Alexander Lee Spence, Jr、1946年4月18日 - 1999年4月16日)は、カナダ生まれのアメリカ人のシンガーソングライター、ミュージシャン[1]である。
1966年にサイケデリック・ロック・バンドであるモビー・グレープを結成したことで知られる。
概要
スペンスは後にクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスを結成したミュージシャン達と活動してギタリストとしてキャリアをスタートさせ、ジェファーソン・エアプレインのデビュー・アルバム『Jefferson Airplane Takes Off』(1966年)ではドラマーを務めた。モビー・グレープを共同で結成して1969年までギターを弾いた。同年、唯一のソロアルバム『Oar』を発表したが、その後音楽業界から大きく身を引いた。
AllMusicのウェブサイトでは「サイケデリアの最も明るい光」と評されている[2]。彼は薬物中毒と精神衛生上の問題に悩まされた。伝記作家は彼を「若くして死ぬことも、出口を見つけるチャンスもなかった」と評している[3]。
バイオグラフィ
生い立ち
アレクサンダー・リー・スペンスは1946年4月18日、カナダのオンタリオ州ウィンザー生まれ。父のアレクサンダー・レット・"ジョック"・スペンス(1914年-1965年)は、機械工、セールスマン、そしてソロのシンガー・ソングライター兼ピアノ奏者としてルート66で活躍した。また第二次世界大戦のカナダ軍爆撃機パイロットとして、殊勲十字章を受章している[4]。
1950年代後半、父アレクサンダーが航空機産業に就職したため、一家はウィンザーからカリフォルニア州サンノゼに移り住んだ。彼は10歳の時に両親から初めてギターをプレゼントされた[5]。
1966年–1969年
スペンスは「サイケデリックな60年代サンフランシスコ・ベイエリア・シーンの主要メンバー」と評されている[6]。彼はマーティ・バリンからジェファーソン・エアプレインの2代目ドラマーにスカウトされる[注 1][7]前は、アザー・サイドというバンドのギタリストだった(様に見えたらしい)[8]。彼はデビュー・アルバム『Jefferson Airplane Takes Off』[注 2](1966年)でドラムを演奏したが、その後予告なしにメキシコで休暇を取って、解雇された[9]。セカンド・アルバム『シュールリアリスティック・ピロー』(1967年)には彼の曲「マイ・ベスト・フレンド」が収録されている[10][11][注 3]。
一時はバッファロー・スプリングフィールドにドラマーとして参加することも考えたが、その後ギタリストに戻り、モビー・グレープを結成した[12]。
1968年、モビー・グレープのセカンド・アルバム『Wow』のレコーディング・セッション中、スペンスはLSDの影響下にありながら、バンドメイトのホテルの部屋のドアを斧で壊そうとした。ニューヨークでのスペンスの悪化と 「斧事件 」について、バンドメイトのジェリー・ミラーは次のように語っている:[3]
ニューヨークでスキッピーは激変した。そこでは、よりハードなドラッグやハードなライフスタイルにのめり込んでいる人たちがいて、とても奇妙なことをやっていたんだ。それで、彼はその人たちと一緒にどこかに行ってしまったんだ。スキッピーはしばらく姿を消した。次に会ったときは、ヒゲを切り落とし、黒いレザージャケットを着て、胸元が垂れ下がっていた。一体何を手に入れたのかわからないが、彼は殴られたんだ。そして次の瞬間、アルバート・ホテルで俺のドアをぶち破ったんだ[注 4]。受付によると、このおかしな男がドアマンの頭に斧を突きつけていたそうだ。
バンドメイトのピーター・ルイスは、ドン・スティーブンソンもスペンスのターゲットになり、その後何が起こったかを語っている[14]:
プロデューサー(デヴィッド・ルビンソン)が家族と一緒にいたがったので、私たちはニューヨークで(アルバムを)作らなければならなかった。だから私たちは家族と離れて、ニューヨークのホテルの部屋で何カ月も過ごさなければならなかった。結局、僕は辞めてカリフォルニアに戻った。数日後に電話がかかってきた。僕抜きでフィルモア・イーストでギグをやった後、スキッピーが黒人の魔女と一緒に出て行って、アシッドをいっぱい飲まされたんだ。まるでドアーズの映画のシーンのようだった。彼は自分が反キリストだと思ったんだ。ドン(スティーヴンソン)を自分自身から救うために、ホテルの部屋のドアを耐火斧で切り倒して殺そうとしたんだ。彼はCBSビルの52階まで行き、そこで彼らは彼を地面に引きずり降ろさなければならなかった。そしてルビンソンは彼を告発した。彼らは彼をトムズ(ニューヨークの悪名高い刑務所)に連れて行き、そこで彼は『Oar』を書いた。出所後、彼はナッシュビルでアルバムを制作した。それが彼のキャリアの終わりだった。半年間、ソラジンを打ち込まれたんだ。彼らはあいつをゲームから締め出した。
1968年6月、スペンスはニューヨークのベルビュー病院に入院し、半年間の入院中に統合失調症と診断された[15]。退院後、他のミュージシャンの手を借りずに唯一のソロ・アルバム、今では名盤となったサイケデリック/フォーク・アルバム『Oar』(1969年、コロムビア・レコード)をレコーディングした。都市伝説によると、退院した当日、パジャマ姿の彼はバイクで直接ナッシュビルに向かったという。
1970年–1999年
1970年代初頭、スペンスはパチューカという3人組のロックバンドを結成し、実験的な活動を行った。その後のモビー・グレープのプロジェクトや再結成にも僅かながら関わり続け、『20 Granite Creek』(1971年)と『Live Grape』(1978年)に参加した。しかしメンバーは彼が自分達と一緒に演奏できるかどうかに関係なく、レコーディングに彼の曲を少なくとも1曲は必ず入れていた。
病状が悪化し、もはやバンドとして機能していないにもかかわらず、スペンスはモビー・グレイプのメンバーによって長期間サポートされた。彼はヘロインとコカインを大量に摂取した結果、さらに非自発的入院を余儀なくされた。ルイスがこう語っている。
彼は何年もの間、ヘロインに溺れていたから。 サンノゼの死体安置所では足の指にタグがつけられていた。突然立ち上がって、水を一杯くれって言ったんだ。彼はコカインを大量に吸引していたが、何も起こらなかった。斧による殺人の描写をしながら部屋を歩き回るから、私たちは彼をそばに置くことができなかった。だから私たちは彼に自分の小さな場所を与えた。彼はオズワルドという名の小さな白いネズミを飼っていて、コカインも吸引していた。食器も洗わず、グラマースクールの女の子を家に連れ込もうとしていた。本当に悪い奴だった。両親のひとりがついに警察を呼んで、サンタクルスの郡精神衛生病院に連れて行かれた。彼はすぐに行方不明になり、数日後に女性病棟で見つかった[16]。
スペンスは精神疾患、薬物中毒、アルコール中毒のため、音楽業界でのキャリアを維持することができなかった。カリフォルニア州の被後見人として第三者機関の世話になり、晩年はホームレスか一時的な宿泊施設で過ごした。彼はサンノゼとサンタクルーズ周辺に留まった。ルイスは晩年の彼を定期的に訪ねていた。
最後の5年間は、キャピトラのトレーラーに住んでいた。週末は一緒に過ごしたよ。でも、彼は基本的に、ある意味、、、何かを定義することも、感情をコントロールすることもできないような、無力な状態だったんだ[17]。
1994年、サンノゼ市が主催する精神病患者のための音楽プログラムに参加[18]。その2年後の1996年、『X-ファイル』のサウンドトラック『Songs in the Key of X』のために作曲を依頼された。彼が提供した曲は使用されなかったが、ロバート・プラント、トム・ウェイツ、ベックらが参加したトリビュート・アルバム『More Oar: A Tribute to the Skip Spence Album』(1999年)に「Land of the Sun」として収録された[19][20]。
スペンスがモビー・グレープと最後に共演したのは1996年8月9日、サンタクルーズのパルーカヴィルにおいてだった。彼はグループを率いて1971年の再結成時に演奏した「Sailing」と、1966年にジェファーソン・エアプレインのために書いた「J.P.P. McStep B. Blues」を即興で演奏した。
死去
スペンスは1999年4月16日、53歳の誕生日を2日後に控えて肺癌で亡くなった。4人の子供たち、11人の孫たち、異母兄のリッチ・ヤング、妹のシェリー・フェレイラが残された[21]。
彼が亡くなる直前に、トリビュート・アルバム『More Oar: A Tribute to the Skip Spence Album』が病院で彼のために演奏された[22]。
サンタクルーズ郡のソケル墓地に埋葬されている[23]。
彼の死後数週間後、『More Oar: A Tribute to the Skip Spence Album』が発表された。
影響
スペンスはオールミュージックのウェブサイトで「サイケデリアの最も明るい光の一人」と評されている[2]。彼がモビー・グレープのファースト・アルバムに書き下ろした 「Omaha」は、2008年に『ローリング・ストーン』誌が選ぶ「史上最高のギター・ソング100曲」のひとつに選ばれている[24]。
2008年6月、スペンスのトリビュート・コンサートがサンタクルーズで開催された。このコンサートには近年モビー・グレープの様々な編成で歌っている息子オマー・スペンスが出演した。父の曲を歌うオマーのバックを務めたのは、元ドゥービー・ブラザーズのデール・オッカーマンとタイラン・ポーターを擁するサンタクルズ・ホワイト・アルバム・アンサンブルで、彼等は過去30年間、モビー・グレープの様々なメンバーと幾つかのバンドで共演してきた。モビー・グレープのオリジナル・メンバーであるドン・スティーヴンソンも出演した。クイックシルバー・メッセンジャー・サービスのキース・グレイヴスがドラムを演奏した[25]。フィナーレではピーター・ルイスがステージに加わった[26]。
2008年10月にもスペンスのトリビュート・コンサートが開催された[27]。
ウィリアム・ギブソンはエッセイ集『Distrust That Particular Flavor』でスペンスに賛辞を送り、その中で彼の仕立て直しのジーンズに感嘆している[28]。
ディスコグラフィ
ジェファーソン・エアプレイン
- Jefferson Airplane Takes Off (RCA, 1966)
- コンピレーション
- Early Flight (RCA, 1974)
- Jefferson Airplane Loves You (RCA, 1992)
モビー・グレープ
- オリジナル・アルバム
- Moby Grape (Columbia, 1967)
- Wow/Grape Jam (Columbia, 1968)
- Moby Grape '69 (Columbia, 1969)
- 20 Granite Creek (Reprise, 1971)
- Live Grape (Escape, 1978)
- The Place and the Time (Sundazed, 2009)
- Moby Grape Live (Sundazed, 2010)
- コンピレーション
- Omaha (Harmony, 1971)
- Great Grape (Columbia, 1972)
- Murder in My Heart (Edsel, 1986)[29]
- Vintage: The Very Best of Moby Grape (Columbia/Legacy, 1993)
- Crosstalk: The Best of Moby Grape (Sony International, 2004)
- Listen My Friends! The Best of Moby Grape (Columbia/Legacy, 2007)
ソロ
スタジオ・アルバム
- Oar (Columbia, 1969), remastered and expanded in 1999 by Sundazed
その他
- AndOarAgain (Columbia, 1969), remastered and expanded "Oar" with three discs (Modern Harmonic/Sundazed) (2018)
シングル
- "Land of the Sun" (Sundazed, 1999)
- "After Gene Autry" b/w "Motorcycle Irene" (aka Previously Unissued Demo Recordings) (Sundazed, 2009)[30]
- "I Want A Rock & Roll Band" b/w " I Got A Lot To Say / Mary Jane" (Modern Harmonic/Columbia, 2019)
コンピレーション収録
- Psychodelia (MCI, 1994) - "War in Peace"
- Psychodelic Frequencies (Temple, 1996) - "War in Peace"
- L'odyssee Du Rock (Sony Music Media/Sony, 2004) 4XLP - "Cripple Creek"
- Meridian 1970 (Protest, Sorrow, Hobos, Folk and Blues) (Forever Heavenly/EMI, 2005) - "Cripple Creek"
- Woodstock Generation (Sony Music, 2009) MP3 - "War in Peace"
- Pure...Psychedelic Rock (Sony Music), 2010) 4XCD - "War in Peace"
- Come on Back to The War (Mississippi, 2011) cassette - "Margret Tiger Rug"
- The Anniversary of Light (Mississippi, 2013) cassette - "Weighted Down"
- Bobby Gillespie Presents Sunday Mornin' Comin' Down (Ace, 2015) - "War in Peace"
- Institute-A Mixed Tape Made By Institute (Sacred Bones, 2015) ltd. edition cassette - "Cripple Creek"
- Between the Music Vol. One (End of the Road, 2022) 2XLP - "Cripple Creek"
- Music For The Stars (Celestial Music 1960-1979) (Two Piers, 2022) 2XLP/CD - "Broken Heart"
- Who Has Seen The Wind (Mississippi) cassette - "Broken Heart"
トリビュート・アルバム
- More Oar: A Tribute to the Skip Spence Album (Birdman, 1999)
脚注
注釈
- ^ バリンはスペンスの華やかな容姿を見て直ぐに、自分達のドラマーになれと声をかけた。スペンスは自分はギタリストだと返答したが、バリンは彼にドラムスティックを渡して、一週間したら連絡するから家で練習しておくようにと命じた。
- ^ グレイス・スリックが加入する前のアルバムである。
- ^ 同アルバムのレコーディングセッションでは、彼とグレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアを交えて、彼が書いた「J.P.P. マックステップ B. ブルース」が演奏された。1974年に発表した編集アルバム『アーリー・フライト』に収録されている。
- ^ Located at University Place and East 11th Street, New York City and now an apartment building, it was at the time a famous hotel originally owned by the brother of artist Albert Pinkham Ryder. The hotel was named in his honour. Robert Louis Stevenson used one of the hotel's rooms as his studio. Other famous guests included Thomas Wolfe and Patrick Bunyan[13]
出典
- ^ Talevski, Nick (April 7, 2010). Rock Obituaries - Knocking On Heaven's Door. Music Sales. p. 607. ISBN 9780857121172
- ^ a b Phares. “More Oar: A Tribute to Alexander "Skip" Spence Review”. AllMusic. 2022年12月17日閲覧。
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- ^ Alexander Lett Spence, Distinguished Flying Cross Citation Archived August 11, 2012, at the Wayback Machine.; airforce.ca; retrieved 2013-02-09; "Alexander Lett Spence later resided in Flower Station, Ontario, a small community in the Lanark Highlands of eastern Ontario, before moving to Windsor, Ontario. Spence received the Distinguished Flying Cross for bravery during a raid on Aulnoye, as a member of the 434 Squadron of the Royal Canadian Air Force. Spence died in San Jose, California on May 1, 1965 at age 50. His body was returned to Canada and interred at Clyde Forks Cemetery, in Lanark County, Ontario."
- ^ Perrone, Pierre (1999年4月19日). “Obituary: Skip Spence”. The Independent 2022年12月17日閲覧。
- ^ Columnist, Guest (2024年4月21日). “Weighted Down: The Complicated Life of Skip Spence review – sensitive portrait of a free spirit” (英語). Big Issue. 2024年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月29日閲覧。
- ^ Tamarkin (2024), p. 42.
- ^ Einarson, John; Furay, Richie (2004) (英語). For What It's Worth: The Story of Buffalo Springfield. Taylor Trade Publications. pp. 146. ISBN 978-0-8154-1281-6
- ^ Tamarkin (2024), pp. 65–66.
- ^ On the 2003 CD reissue of Surrealistic Pillow. an additional Spence song,"J.P.P. McStep B. Blues", is included as a bonus track.
- ^ Tamarkin (2024), p. 115.
- ^ Einarson, John; Furay, Richie (2004) (英語). For What It's Worth: The Story of Buffalo Springfield. Taylor Trade Publications. pp. 146. ISBN 978-0-8154-1281-6
- ^ All Around The Town: Amazing Manhattan Facts and Curiosities. Fordham University Press, 1999.
- ^ Cost (1995年). “Peter Lewis: Call Him Ishmael - Part 3”. Sundazed.com. 2007年9月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月17日閲覧。
- ^ Hughes (2022年4月18日). “Visions of axe murderers: the tragic genius of Skip Spence” (英語). Louder Sound. 2022年12月17日閲覧。
- ^ Jud Cost, Interview with Peter Lewis (1995) Archived September 4, 2007, at the Wayback Machine., sundazed.com; accessed December 31, 2015.
- ^ Doug Collette, Interview with Peter Lewis Archived July 25, 2011, at the Wayback Machine., Stateofmindmusic.com, July 2007; accessed December 31, 2015.
- ^ Johnny Angel, Skip Spence dies Archived March 5, 2010, at the Wayback Machine., salon.com, April 19, 1999; accessed December 31, 2015.
- ^ Matthew Greenwald, "Skip Spence Lived a Surrealistic Life"[リンク切れ], RollingStone.com, April 19, 1999.
- ^ John Pareles, Skip Spence, Psychedelic Musician, Dies at 52, Nytimes.com, April 18, 1999; accessed December 31, 2015.
- ^ Skip Spence Dies of Lung Cancer. CMJ Nw Music Reporter. (May 10, 1999) 2011年4月10日閲覧。
- ^ Interview with Peter Lewis Archived July 25, 2011, at the Wayback Machine. by Doug Collette, July 2007; Stateofmindmusic.com.
- ^ “Rock and Roll Roadmap” (2015年12月19日). 2020年3月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月17日閲覧。
- ^ "Rolling Stone’s 100 Greatest Guitar Songs Of All Time" Archived June 22, 2018, at the Wayback Machine. "Omaha" ranked at number 95.
- ^ Paul Davis,"Honor Thy Father" Archived June 19, 2008, at the Wayback Machine., metroactive.com, June 18, 2008; retrieved July 8, 2008. .
- ^ "Concert review"[リンク切れ], gather.com; retrieved on July 8, 2008.
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- ^ Gibson, William (2012). Distrust That Particular Flavor. Viking. pp. 175–177
- ^ Compilation album of selections from Wow, Moby Grape '69 and Truly Fine Citizen Archived March 23, 2011, at the Wayback Machine., deaddisc.com; accessed December 31, 2015.
- ^ “Alexander "Skip" Spence* - After Gene Autry / Motorcycle Irene”. Discogs. 2018年7月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月18日閲覧。
引用文献
- Tamarkin, Jeff (2024). Got a Revolution!: The Turbulent Flight of Jefferson Airplane. Atria Books. ASIN B00AK80EKI
外部リンク
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