ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 14:22 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ジョヴァンニ・デ・メディチ Giovanni de' Medici |
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ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの肖像画、ウフィツィ美術館蔵
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出生 | 1498年4月5日 フォルリ |
死去 | 1526年11月30日(28歳没) マントヴァ近郊カステル・ゴッフレード |
配偶者 | マリア・サルヴィアティ |
子女 | コジモ1世 |
家名 | メディチ家 |
父親 | ジョヴァンニ・デ・メディチ・イル・ポポラーノ |
母親 | カテリーナ・スフォルツァ |
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni dalle Bande Nere,1498年4月6日 - 1526年11月30日[1])は、イタリアの傭兵隊長(コンドッティエーレ)で、メディチ家の一人。初代トスカーナ大公コジモ1世の父。本名はジョヴァンニ・デ・メディチ。
生涯
1498年、メディチ家の傍系ジョヴァンニ・イル・ポポラーノとカテリーナ・スフォルツァの子としてフォルリに生まれる。フォルリ・イーモラの僭主・オッタヴィアーノ(リアーリオ家)の異父弟に当たる。
生まれてすぐ父が、11歳の時母が亡くなったため、親類のレオ10世のもとで軍人になるための訓練を受け、その後教皇軍の指揮をとる。イタリア戦争ではカール5世の皇帝軍に勇猛に立ち向かい、後年「ルネサンス最後の傭兵隊長」と賞讃された。18歳でロレンツォ・デ・メディチの孫のマリア・サルヴィアティと結婚し、息子のコジモ(後のコジモ1世)をもうける。
レオ10世が亡くなった時、哀悼の意を表して黒い帯を彼の記章に付け加えたため、バンデ・ネーレ(黒バンド、黒帯)という通名で呼ばれるようになる。彼の部隊(it)は全員黒い絹のリボンを付け、槍にも黒の槍旗を付けていた。日本語では黒隊長、黒旗、または黒備えのジョヴァンニとも訳される。
1526年、マントヴァ近郊カステル・ゴッフレードでの戦いで右足を砲弾で砕かれ、敗血症により死亡。半年後にローマ略奪が起こった時、人々は「彼が生きていたらこれほどのことにはならなかったのに」と嘆いたと伝えられる。
格言
"理(ことわり)なくして剣を抜かず、徳なくして剣を握らず" (Non mi snudare senza ragione, non m'impugnare senza varore)
"私が前に進む時は、皆私についてこい。もしも私が退(ひ)こうとしたら、私を殺せ!"
登場作品
- 映画
- ジョヴァンニ(2001年、イタリア、監督:エルマンノ・オルミ、主演:クリスト・ジフコフ)
脚注
固有名詞の分類
メディチ家 |
春の戴冠 イッポーリト・デ・メディチ ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ カトリーヌ・ド・メディシス コジモ2世 |
イタリアの軍人 |
ウンベルト2世 トンマーゾ・アルベルト・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ ロドルフォ・グラッツィアーニ ヴィテロッツォ・ヴィテッリ |
コンドッティエーレ |
グイード・ゴンザーガ オビッツォ3世・デステ ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ ヴィテロッツォ・ヴィテッリ |
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