マリア・サルヴィアティとは? わかりやすく解説

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マリア・サルヴィアティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/25 02:56 UTC 版)

マリア・サルヴィアティ
Maria Salviati

出生 (1499-07-17) 1499年7月17日
フィレンツェ
死去 (1543-12-12) 1543年12月12日(44歳没)
埋葬 サン・ロレンツォ聖堂
配偶者 ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ
子女 コジモ1世
父親 ヤコポ・サルヴィアティ
母親 ルクレツィア・デ・メディチ
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マリア・サルヴィアティ(Maria Salviati, 1499年7月17日 - 1543年12月12日)は、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの妻。「サルビアチ」とも呼ばれる。

生涯

ヤコポ・サルヴィアティとルクレツィア・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの娘)の娘として、フィレンツェで生まれた。1516年にジョヴァンニと結婚し、1519年に長男コジモを産んだ。

1526年11月30日にジョヴァンニが死去し、息子コジモを師ピエルフランチェスコ・リッチオと共にヴェネツィアに送り、翌1527年5月のローマ劫掠およびメディチ家がフィレンツェから追放された後、マリアもヴェネツィアの息子の元に向かったが、1530年にメディチ家はフィレンツェの統治を取り戻している。1533年9月には、ローマ教皇クレメンス7世の意向により、カトリーヌ・ド・メディシスに従いマルセイユに向かっている。

1537年、フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチが暗殺され、息子コジモがフィレンツェ公を継承した。

1543年12月12日にマリアは死去し、サン・ロレンツォ聖堂に埋葬された。

マリアと幼いジュリア・デ・メディチ(アレッサンドロの庶子)。ポントルモ画。

参考文献




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