ジャムカの推戴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 22:06 UTC 版)
アルクイ泉同盟を撃破した同じ年の冬、更にテムジンは単独でモンゴル高原東方の有力部族、タタル部族をダラン・ネムルゲスの戦いで撃ち破り、テムジンの勢力はモンゴル高原東方において名実共に最も強大なものとなった。そこで翌1201年(辛酉)、「アルクイ泉同盟」のモンゴル部のカタギン氏、サルジウト氏、ドルベン氏、コンギラト部のコンギラト本氏、コルラス氏、イキレス氏、タタル部のアルチ氏の諸部族を加えたモンゴル高原東方の諸部族はアルグン河の支流ケン河に結集してジャダラン氏出身のジャムカを「グル・カン」に推戴した。このジャムカ推戴は金朝と同盟して勢力を拡大するキヤト・ケレイト連合に対する、「西遼派」諸部族の巻き返しという側面があったものと考えられている。 この「ジャムカの推戴」の参加者にタガイカという人物がおり、テムジンに仕えるジュウレイト部のチョウルとは以前から親しかったためこの推戴について密かに知らせた。驚いたチョウルは急ぎ戻り、偶然出会ったコルラス部のイェスゲイに相談し、イェスゲイは家人のコリダイを使者としてテムジンの下に派遣することとした。コリダイの報告によってテムジンは先手を打って軍を動かすことに成功し、ハイラル河流域のイディ・クルカンの戦いでジャムカの軍勢を撃退した。
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