ジェームズ・フィップスとは? わかりやすく解説

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ジェームズ・フィップス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/29 02:23 UTC 版)

フィップスがエドワード・ジェンナーによる牛痘接種を受ける様子。アーネスト・ボードロシア語版画、1910年ごろ。

ジェームズ・フィップス英語: James Phipps1788年1853年)は、エドワード・ジェンナーによる牛痘接種を受けた最初の人物[1]。この時代、搾乳婦の間で牛痘という(天然痘より軽い)伝染病にかかった人が天然痘にかからないとする言い伝えがあり、ジェンナーはこれを知ると、自身の理論をフィップスに試した[2]。フィップスへの種痘は成功に終わり、後に天然痘の種痘を受けても病気にかからなかった[3]

牛痘接種

フィップスがジェンナーによる種痘を受ける様子。ガストン・メリングフランス語版によるリトグラフ、1894年ごろ。

エドワード・ジェンナーの庭師の息子として、グロスタシャーバークリー英語版で生まれ、4歳の時にバークリーの聖メアリー教区教会で洗礼を受けた。

1796年5月14日、ジェンナーにより「約8歳の健康な男の子」(a healthy boy, about eight years old)として、牛痘接種の対象に選ばれた[4]。ジェンナーは搾乳婦サラ・ネルムズ(Sarah Nelmes[注釈 1])の手にある牛痘の小水泡から液を抽出し、フィップスの腕に小さな切り傷を2つつけて接種した[6]

ジェンナーの記述したところによると、「彼は7日目に腋の下の不調を訴え、9日目に寒気がした上、食欲不振で軽い頭痛もあった。この日は目に見えて気分が悪く、その夜もある程度の不眠が見られたが、翌日には全快した」(On the seventh day he complained of uneasiness in the axilla and on the ninth he became a little chilly, lost his appetite, and had a slight headache. During the whole of this day he was perceptibly indisposed, and spent the night with some degree of restlessness, but on the day following he was perfectly well.)という[7]。約6週間後、ジェンナーはフィップスに天然痘を接種し、この接種に効果がないことがわかると、フィップスが天然痘に対する免疫を得たと結論付けた[6][8]。フィップスはその後20回以上天然痘の接種を受けたが、1度も天然痘を罹患しなかった[9]

フィップスは度々天然痘の予防に牛痘接種を受けた最初の人物として言及されたが、これは誤りである。1791年、ホルシュタイン公国キール出身の医師ペーター・プレット英語版は子供3名に対し牛痘接種を行っており[10]ドーセットイェットミンスター英語版出身のベンジャミン・ジェスティ英語版も1774年に妻と息子2人に牛痘接種を行っている[11]。しかし、ジェンナーは1798年に『牛痘の原因および作用に関する研究』(An Inquiry into the Causes and Effects of the Variolæ Vaccinæ)でフィップスに対する種痘を記述し、膿が抽出されたサラ・ネルムズの手のイラストも含めた。ジェンナーの著作は腕から膿を抽出し、それを別人の腕に接種することができるという記述と、接種に適切な膿の選び方の記述が含まれており、結果的にはワクチン接種に関する最初の著作となった[12]

その後

フィップスが住んだコテージにある銘板、2006年撮影。

ジェンナーは後にバークリーにあるコテージを無料でフィップス一家(このときにはフィップスが結婚しており、子供を2人もうけた)に貸し出した。このコテージはフィップスの死去から1世紀以上経過した1968年より「エドワード・ジェンナー博物館」(Edward Jenner Museum)として一般公開されたが、博物館は1982年にジェンナーの家英語版に移転された[6]。フィップスはジェンナーに感謝し、1823年にジェンナーが死去したとき、同年2月3日に行われたジェンナーの葬儀に出席した[3]

1853年に死去[3]、同年4月25日に洗礼を受けた教会であったバークリーの聖メアリー教会に埋葬された。ジェンナーも同じ教会に埋葬されている。

注釈

  1. ^ ジェンナーは1798年の『牛痘の原因および作用に関する研究』で搾乳婦の名前をサラ・ネルムズ(Sarah Nelmes)としたものの、未出版の手稿ではルーシー・ネルムズ(Lucy Nelmes)とした[5]

出典

  1. ^ Reid 1974, p. 7.
  2. ^ Bartolache, José Ignacio (1779). Instrucción que puede servir para que se cure a los enfermos de las viruelas epidemicas que ahora se padecen en México (スペイン語) (1st ed.). Impresa à instancia y expensas de dicha N. Ciudad.
  3. ^ a b c "James Phipps 1788 - 1853". Science Museum Group (英語). 2020年12月30日閲覧
  4. ^ Reid 1974, p. 18.
  5. ^ Baxby, D. (1985). "The genesis of Edward Jenner's Inquiry of 1798: a comparison of the two unpublished manuscripts and the published version". Med Hist. 29 (2): 193–199. doi:10.1017/s0025727300044008. PMC 1139508. PMID 3884936
  6. ^ a b c Morgan, A. J.; Parker, S. (2007). "Translational Mini-Review Series on Vaccines: The Edward Jenner Museum and the history of vaccination". Clin Exp Immunol (英語). 147 (3): 389–394. doi:10.1111/j.1365-2249.2006.03304.x. PMC 1810486. PMID 17302886
  7. ^ Tan, SY (2004). "Tan: Edward Jenner (1749–1823) conqueror of smallpox". Singapore Med J (英語). 45 (11): 507–508. PMID 15510320
  8. ^ Willis, N. J. (1997). "Edward Jenner and the eradication of smallpox". Scott Med J (英語). 42 (4): 118–121. doi:10.1177/003693309704200407. PMID 9507590. S2CID 43179073
  9. ^ Reid 1974, p. 19.
  10. ^ P. C. Plett: Peter Plett und die übrigen Entdecker der Kuhpockenimpfung vor Edward Jenner. Sudhoffs Archiv, Zeitschrift für Wissenschaftsgeschichte, vol 90, issue 2, Franz Steiner Verlag, Stuttgart, 2006, pp. 219–232. ISSN 0039-4564
  11. ^ Hammarsten, J. F.; et al. (1979). "Who discovered smallpox vaccination? Edward Jenner or Benjamin Jesty?". Trans Am Clin Climatol Assoc (英語). 90: 44–55. PMC 2279376. PMID 390826
  12. ^ Baxby, Derrick (1999). "Edward Jenner's Inquiry; a bicentenary analysis". Vaccine. 17 (4): 301–307. doi:10.1016/s0264-410x(98)00207-2. PMID 9987167

参考文献

  • Reid, Robert (1974). Microbes and men (英語). London: British Broadcasting Corporation. ISBN 0-563-12469-5

外部リンク


ジェームズ・フィップス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 23:39 UTC 版)

恐怖」の記事における「ジェームズ・フィップス」の解説

1800年にクロットンに移住してきた科学者1805年素性わからない女性と結婚し、息子ライオネルをもうける。移住から100年近く後の1898年死去

※この「ジェームズ・フィップス」の解説は、「恐怖の橋」の解説の一部です。
「ジェームズ・フィップス」を含む「恐怖の橋」の記事については、「恐怖の橋」の概要を参照ください。

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