サンス・パレイル (戦列艦)とは? わかりやすく解説

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サンス・パレイル (戦列艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/30 02:47 UTC 版)

艦歴(フランス海軍)
建造: ブレスト
起工: 1790年8月
進水: 1793年6月8日
捕獲: 1794年6月1日
艦歴(イギリス海軍)
入手: 1794年6月1日
用途変更: 監獄船(1807年)
廃船(1810年)
その後: 1842年10月解体
性能諸元
排水量: 1,800トン
全長: 砲列甲板:59.3 m(197 ft 6 in)
全幅: 15.3 m(50 ft 7 in)
喫水: 7.8 m
推進: 帆走(3本マストシップ
乗員: 738名
兵装(竣工時): 砲80門
(36ポンド砲30門)
(24ポンド砲32門)
(12ポンド砲18門)
36ポンドカロネード砲4門
兵装(1806年以降): 砲80門
(24ポンド砲30門(下甲板))
(24ポンド砲30門(上甲板))
(24ポンド砲2門、24ポンドカロネード砲12門(艦尾甲板))
(24ポンド砲2門、24ポンドカロネード砲4門(艦首楼甲板))

HMS サンス・パレイル(HMS Sans Pareil)は、18世紀末に建造されたイギリス海軍の80門3等級戦列艦フランス海軍の戦列艦サン・パレイユ(Sans Pareil)として建造されたが、間もなくイギリス海軍に捕獲され、軍艦としての残りの経歴をイギリス軍艦として過ごした。

フランス軍艦としての経歴

サン・パレイユはグロワニャール設計のトナン級戦列艦の1隻としてブレストで建造された。進水は1793年6月8日だったが、フランス海軍に所属した期間は1年にも満たなかった[1]。少将ジョセフ=マリー・ニエリの戦隊の旗艦として、クーラン艦長の指揮下、1794年5月の大西洋航海に参加した[2]。ニエリ戦隊は北アメリカからトウモロコシを運んでくるピエール・ジャン・ヴァン・スタベル率いる輸送船団と会合することになっていたが、それより先、1794年5月9日にイギリスの船団と遭遇した。その船団はサー・トーマス・トラウブリッジ艦長の指揮する軍艦キャスター(HMS Castor)に護衛されていた[1]。戦隊はキャスターを攻撃して多くの輸送船とともに捕獲したが、キャスターはほどなく、5月29日にイギリス軍艦キャリスフォート(HMS Carysfort)によって奪還された[1]

「栄光の6月1日」のフランス艦隊。サン・パレイユは後衛戦隊の後ろから2番目

戦隊は復路の輸送船団と合流し、フランスへの航海を開始した。その間、ルイ・トマス・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズ提督指揮下のフランス艦隊はハウ伯爵リチャード・ハウ指揮のイギリス艦隊に迎撃され、5月28日と29日に散発的な戦闘を繰り返していた。ニエリは輸送船団はフリゲート部隊に護送させることとし、サン・パレイユを含む配下の大型艦数隻をヴィラレーの応援に差し向けた。ヴィラレー艦隊は「栄光の6月1日」にイギリス艦隊と大規模な海戦を行ったが、そのときサン・パレイユは後衛戦隊に属していた。海戦では、フランス戦列を突破しようとしたイギリス軍艦ロイヤル・ジョージ(ブリッドポート男爵アレグザンダー・フッド中将の旗艦)と交戦し、その舷側砲火で前部と後部のマストを打ち倒された[2]。イギリス軍艦グローリーは艦尾から縦射し、メインマストを粉砕した。損傷を受け、操縦不能となったサン・パレイユは戦列から外れ、イギリス軍艦マジェスティックに捕獲された。艦内に捕らえられていたトラウブリッジを含むキャスターの50名の将兵は解放され、サン・パレイユのスピットヘッドへの回航を助けた。サン・パレイユは乗組員の約260名を喪い、負傷者は約120名であった。

イギリス軍艦としての経歴

サン・パレイユはイギリス海軍に編入されてイギリス軍艦「サンス・パレイル」となり、まず1795年3月からヒュー・シーモア卿が艦長として指揮した。シーモア卿は「栄光の6月1日」の1周年である1795年6月1日に少将に昇進し、艦長は1795年8月にW・ブロウウェルに交替したが、海峡艦隊におけるシーモアの旗艦として使われ続けた。その後、アレクサンダー・フッド提督の艦隊に加わり、ヴィラレーとのもうひとつの海戦(6月22日のグロワ島の海戦)に参加し、フランス軍艦フォルミダブル(Formidable)およびプープル(Peuple)と交戦して戦死者10名と負傷者2名を出した。フォルミダブルは捕獲されてイギリス軍艦ベライル(HMS Belleisle)となった。シーモアは1795年秋に海軍本部委員となって艦を離れた。

サンス・パレイルはフランス沿岸の哨戒を継続したが、その際、フランス製であるということを利用してフランスの旗を掲揚し、私掠船を射程内に誘い込んだ[2]。シーモアは何度も海上勤務に戻り、航海ではサンス・パレイルを旗艦として用いた。1799年1月にはアトキンス艦長が着任したが、8月にはペンローズ艦長に交替した。その後再びシーモアの旗艦として西インド諸島へ航海したが、シーモアは熱病を患って1801年9月11日に死亡した[2]。ペンローズ艦長もまた病気になったため、イギリスに帰国せざるを得なかった。サンス・パレイルの指揮はエシントン艦長が引き継ぎ、リチャード・モンタギュー提督の旗艦として仕えた。1802年9月4日にプリマスに戻り、18ヵ月の期間と35,000ポンドの費用を費やした大修理を行った[2]。それによりサンス・パレイルは監獄船となり、1807年までフランスの捕虜を収容する役目を果たした[2]1810年10月にはプリマスで廃船となり、1842年10月に解体されるまで32年をその状態で過ごした[3]

脚注

  1. ^ a b c Winfield. British Warships of the Age of Sail. pp. p. 205. 
  2. ^ a b c d e f url=http://www.ageofnelson.org/MichaelPhillips/info.php?ref=1964
  3. ^ Lyon & Winfield. The Sail and Steam Navy List. pp. p. 9–10. 

参考資料

  • Winfield, Rif, British Warships of the Age of Sail 1714–1792: Design, Construction, Careers and Fates, pub Seaforth, 2007, ISBN 1-86176-295-X
  • Lyon, David and Winfield, Rif, The Sail and Steam Navy List, All the Ships of the Royal Navy 1815–1889, pub Chatham, 2004, ISBN 1-86176-032-9
  • Lavery, Brian (2003) The Ship of the Line — Volume 1: The development of the battlefleet 1650–1850. Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-252-8.
  • Details of HMS Sans Pareil's career



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