コネチカット植民地との合流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/20 16:04 UTC 版)
「ニューヘイブン植民地」の記事における「コネチカット植民地との合流」の解説
ニューヘイブン植民地は、ハートフォードに中心を置くコネチカット川沿いの開拓地との関係で不安定な競合が続いていた。ニューヘイブン植民地は1656年に完全な法典を発行していたが、その法律は教会中心のままであった。ニューヘイブンとコネチカット植民地の大きな違いは、コネチカットが「分別有る異議」に基づいて他の教会が布教することを許していたのに対し、ニューヘイブンではピューリタン以外の教会の存在を認めていなかったことだった。 1662年にコネチカット植民地に勅許状が降り、独立した植民地としてのニューヘイブンの時代は終わった。植民地内の町は1665年にコネチカット植民地政府の管轄下に入った。 ニューヘイブンが力を失っていったことには幾つかの要因があり、中でもイートン知事を失ったこと、唯一の外洋船を失い、フィラデルフィアの惨事で経済的に危機となったことがあった。また国王殺しの問題もあった。当時のコネチカット植民地は上り調子にあった。
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