グナエウス・コルネリウス・レントゥルス (紀元前201年の執政官)とは? わかりやすく解説

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グナエウス・コルネリウス・レントゥルス (紀元前201年の執政官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/27 23:20 UTC 版)

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グナエウス・コルネリウス・レントゥルス
Cn. Cornelius L.f. L.f. Lentulus
出生 不明
死没 紀元前183年
出身階級 パトリキ
氏族 コルネリウス氏族
官職 財務官(紀元前212年)
按察官(紀元前205年)
執政官(紀元前201年)
鳥占官(- 紀元前183年)
指揮した戦争 第二次ポエニ戦争
後継者 ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・ルプスグナエウス・コルネリウス・レントゥルス
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グナエウス・コルネリウス・レントゥルスラテン語: Gnaeus Cornelius Lentulus、- 紀元前183年)は紀元前3世紀後期から紀元前2世紀前半の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前201年執政官(コンスル)を務めた。

出自

レントゥルスはエトルリアに起源を持つパトリキ(貴族)であるコルネリウス氏族の出身であるが、コルネリウス氏族はローマでの最も強力で多くの枝族を持つ氏族でもあった[1][2]。レントゥルスのコグノーメン(第三名、家族名)が最初に確認できる人物は、紀元前327年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルスであるが、コルネリウス氏族の他の枝族との関係は不明である[3]。グナエウスはこのルキウスの直接の子孫ではないと思われる。

レントゥルスの父は紀元前237年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌス、祖父は最高神祇官紀元前275年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスである。祖父ルキウスはマニウス・クリウス・デンタトゥスと共にベネウェントゥムの戦いピュロスに勝利したことで知られる[4]

グナエウスの弟であるルキウス・コルネリウス・レントゥルス紀元前199年に執政官を務めた[4]

息子のルキウス・コルネリウス・レントゥルス・ルプス紀元前156年に、グナエウス・コルネリウス・レントゥルス紀元前146年に、それぞれ執政官を務めている[4]

経歴

レントゥルスが歴史上の記録に最初に登場するのは紀元前216年のことであり、カンナエの戦いに参加したトリブヌス・ミリトゥム(高級士官)の一人であった[5]。複数の古代の記録において、ローマ軍の完全な敗北がほぼ明らかになった時点で、レントゥルスは負傷して岩の上に座る執政官ルキウス・アエミリウス・パウルスを見つけ、彼に自分の馬を渡してパウルスを救おうとした。しかし、パウルスはこれを拒否して彼の最後の言葉をクィントゥス・ファビウス・マクシムスに伝えるように言った。このことは複数の古代の文書に記録されているが[6][7][8]、おそらくは創作である[9]

紀元前212年、レントゥルスはウェネウェントゥム(現在のベネヴェント)付近でハンニバルと戦っていたティベリウス・センプロニウス・グラックス財務官(クァエストル)を務めた[10]。グラックスが待ち伏せ攻撃にあって戦死すると、レントゥルスはハンニバルから送られたグラックスの首を用いて、野営地で葬儀をとりおこなったとされる(ハンニバル自身が葬儀を行い、遺灰をローマに送ったとの説もあり、こちらが一般に受け入れられている)[11]。その後しばらくレントゥルスはグラックスの軍の指揮を執った。ハンニバルがカプアで戦っているときに、レントゥルスの騎兵が突如出現し、両軍ともにそれが敵軍の増援部隊と考えて戦闘を停止したとされる[12]

紀元前205年、レントゥルスは上級按察官(アエディリス・クルリス)に就任した。同僚は弟のルキウスとも[13]、いとこのプブリウスとも[14]言われている。

紀元前201年、レントゥルスは執政官に就任。同僚のプレブス(平民)執政官はプブリウス・アエリウス・パエトゥスであった[15]。前年にスキピオ・アフリカヌスザマの戦いで決定的な勝利を収めてはいたものの、第二次ポエニ戦争は未だ継続していた。このため、レントゥルスはアフリカへの出征を求めた。それが実現すれば最後の栄光は彼のものとなる。パエトゥスはこれに干渉しなかったが、リウィウスによると、これはそのようなことは不可能と考えていたからだとしている[16]

民会はスキピオをアフリカにおける総司令官とすることを再度認めたが、最終決定は元老院に委ねられた。元老院は、執政官の一人が艦隊を率いてシキリアへ向かい、戦争が継続するようであるならば艦隊を率いてアフリカへ行くこととした[17]。レントゥルスがその役割を担うことになった。カルタゴの外交団が講和交渉のためにローマを訪れるとレントゥルスは講和を妨害しようとしたが、これには失敗した[18]

ティトゥス・リウィウスの記録を信じるならば、スキピオは紀元前202年の執政官ティベリウス・クラウディウス・ネロとレントゥルスが、カルタゴを完全に破壊することを妨げたと後に繰り返し述べていた[19]。しかし、これはスキピオの歴史的な外交政策に反するものであり、これが事実かどうかは疑わしい[17]

紀元前199年には、ナルニアに植民市を建設する三人委員の一人に選ばれた[20][21]紀元前196年ギリシアに外交使節としてレントゥルスという人物が派遣されているが、これは紀元前201年の執政官レントゥルスと思われる[22][23]

レントゥルスは紀元前183年に死去した。死去した時点で鳥占官を務めていたことは分かっているが、いつ就任したかは不明である[24]

脚注

  1. ^ Haywood R., 1933, p. 22.
  2. ^ Bobrovnikova T., 2009, p. 346-347.
  3. ^ Münzer F. "Cornelii Lentuli", 1900 , s.1356.
  4. ^ a b c RE. Stuttgart, 1900. B. VII. S.1359-1360
  5. ^ Broughton T., 1951, p. 250.
  6. ^ リウィウスローマ建国史』、XXII, 49.6-12.
  7. ^ プルタルコス対比列伝ファビウス』、16.
  8. ^ フロンティヌス『戦術論』、IV, 5, 5.
  9. ^ Rodionov E., 2005 , p.284.
  10. ^ Broughton T., 1951, p. 268.
  11. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXV, 17.7.
  12. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXV, 19.4.
  13. ^ Broughton T., 1951 , p.302.
  14. ^ Sumner G., 1970, p. 89.
  15. ^ Broughton T., 1951, p. 319.
  16. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXX, 40.7-8.
  17. ^ a b Cornelius 176, 1900, s.1358.
  18. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXX, 43.1.
  19. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXX, 44.3.
  20. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXII, 2.7.
  21. ^ Broughton T., 1951, p. 329.
  22. ^ Broughton T., 1951, p.337.
  23. ^ Münzer F. "Cornelius 176", 1900, s.1358-1361.
  24. ^ Münzer F. "Cornelius 176", 1900, s.1361

参考資料

古代の資料

研究書

  • Bobrovnikova T. "Scipio African" - M .: Young Guard, 2009. - 384 p. - ISBN 978-5-235-03238-5 .
  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
  • Haywood R. "Studies on Scipio Africanus" - Baltimore, 1933.
  • Münzer F. "Cornelii Lentuli" // RE. - 1900. - T. VII . - P. 1355-1357 .
  • Münzer F. "Cornelius 176" // RE. - 1900. - T. VII . - P. 1358-1361 .
  • Sumner G. "Proconsuls and "Provinciae" in Spain, 218/7 - 196/5 BC" // Arethusa. - 1970. - T. 3.1 . - P. 85-102 .
  • Rodionov E. "Punic Wars" - St. Petersburg. : Publishing house of St. Petersburg State University, 2005. - 626 p. - ISBN 5-288-03650-0 .

関連項目

公職
先代:
ティベリウス・クラウディウス・ネロ
マルクス・セルウィリウス・プレクス・ゲミヌス
執政官
同僚:プブリウス・アエリウス・パエトゥス
紀元前201年
次代:
プブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムス II
ガイウス・アウレリウス・コッタ



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