ギヨーム4世 (ルクセンブルク大公)とは? わかりやすく解説

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ギヨーム4世 (ルクセンブルク大公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/17 08:56 UTC 版)

ギヨーム4世
Guillaume IV
ルクセンブルク大公
ギヨーム4世
在位 1905年11月17日 - 1912年2月25日

全名 Guillaume Alexandre
ギヨーム・アレクサンドル
Wilhelm Alexander
ヴィルヘルム・アレクサンダー
出生 (1852-04-22) 1852年4月22日
ナッサウ公国ヴィースバーデンビーブリヒ城
死去 (1912-02-25) 1912年2月25日(59歳没)
ルクセンブルクコルマー=ベルグベルグ城
埋葬 ルクセンブルクルクセンブルク市ノートルダム大聖堂
配偶者 マリー=アンヌ・ド・ポルテュガル
子女 マリー=アデライド
シャルロット
イルダ
アントニア
エリザベート
ソフィー
家名 ナッソー=ヴェイユブール家
父親 アドルフ
母親 アデライード=マリー・ダナル=デソー
宗教 キリスト教プロテスタント
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ギヨーム4世フランス語: Guillaume IV, 1852年4月22日 - 1912年2月25日)は、ルクセンブルク大公(在位:1905年 - 1912年)。オランダ王を兼ねていたウィレム1世同2世同3世にならってオランダ語名でウィレム4世(Willem IV)と呼ばれることもある。ドイツ語名はヴィルヘルム(Wilhelm)。

生涯

ナッサウ公アドルフと妃アーデルハイト・マリー・フォン・アンハルト=デッサウの長男として生まれる。公位継承者とされていたが、1866年ナッサウ公国プロイセン王国に併合されたため、父とともに廃された。のち、1890年に父が新たにルクセンブルク大公に迎えられたことでその継承者となり、1905年に父の薨去により大公位に就いた。

1893年ポルトガルの廃王ミゲル1世の娘マリア・アナ(マリー・アンヌ)と結婚し、6人の娘が生まれたが、男子は得られなかった。そこで、それまで女子の継承を認めていなかった継承法が改正され、1907年に長女マリー=アデライドが継承者とされた。1912年に薨去。マリー=アデライドが即位した。

子女

妻マリー=アンヌとの間に6人の娘をもうけた。

君主位
先代
アドルフ
ルクセンブルク大公
1905年 - 1912年
次代
マリー=アデライド



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