ギヨーム3世 (ポンテュー伯)とは? わかりやすく解説

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ギヨーム3世 (ポンテュー伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/26 16:34 UTC 版)

ギヨーム3世
仏語: Guillaume Ier de Ponthieu
ポンテュー伯の紋章

ポンテュー伯英語版
在位期間
1105年以前 - 1129年以前
先代 アニェス英語版
次代 ギー2世英語版

アランソン伯英語版
先代 ロジャー・ド・モントゴメリー英語版
次代 ジャン1世

出生 1093年
死亡 1171年
王室 ベレーム家英語版
父親 ロバート・オブ・ベレーム英語版
母親 アニェス英語版
配偶者 エレーヌ・ド・ブルゴーニュ
子女
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ギヨーム3世・ド・ポンテューフランス語Guillaume Ier de Ponthieu、1093年頃 - 1171年)とは、11-12世紀のモントゴメリー領主並びにポンテュー伯英語版(在位:1105年以前 - 1129年以前)、アランソン伯英語版である。William Talvasとも称される[a]

生涯

ギヨームは1093年[1]に、父ベレーム家のロベール2世英語版・母アニェス英語版の子として生まれた[2][3]。彼は1105年から1111年の間のいずれかの時期に父親からポンテュー伯爵位英語版を継承し、ポンテュー伯爵時代にはクリュニー修道院に贈答品を贈った記録が残されている[2]。父親ロベールはたびたびイングランド王ヘンリー1世に対して盾突く行為を見せていた。そしてヘンリー1世と対立していたノルマンディー公ロベール短袴公の軍勢に後衛部隊の指揮官として加わり、1106年にタンシュブレーの戦いでイングランド軍と決戦を繰り広げたが、敢え無く敗れロベール伯自身は戦場からの離脱に成功していた。しかし、フランス王ルイ6世の使者の一員としてイングランドに向かった際、ヘンリー1世によって捕縛され、生涯にわたって囚われ続けた[4]。父親を囚われたギヨームは自然とヘンリー1世と対立を深めたが、1119年6月、ヘンリー1世はギヨームに対して父ロベールのノルマンディーにおける領土の安堵を認めた。1124年、ギヨームはブルゴーニュ公ユーグ2世とともにランスに軍を進め、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と争う仏王ルイ6世を支援した[5]

1126年以前のある時期に、ギヨームは息子ギーにポンテュー伯領を譲渡し、爵位のみ保持した[2]。1127年、ギヨームはマンシュ地域の一部をサン=ソヴァール=ル=ヴィコント英語版の修道院に寄進したが、ベレーム家はこの寄進を支持しなかったという[5]。1135年、ギヨームはイングランド王ヘンリー1世からイングランド王宮に参上するよう何度も招集を受けたとされるが、父親がヘンリー1世から受けた仕打ちを考慮してギヨームは黙殺した[6]。9月までにギヨームは彼の領土であるマンシュに帰還したが、ヘンリー1世はこの時再びギヨームのノルマンディーにおけるすべての領土の没収を宣言した[2]。ギヨームはイングランド王からのこの仕打ちに対して、ヘンリー1世の死後行われたアンジュー伯ジョフロワ5世のノルマンディー侵攻に参加した[2]。ヘンリー1世の死後イングランド王国で内戦が勃発した際、ギヨームの領地ではセー司教によって聖務禁止命令が下されたという[7]。ギヨームは内戦ではジョフロワ5世に与して争いに関与し、1136年9月にはノルマンディー侵攻に参加したが、撤退に追い込まれた[7]。1137年までには、ノルマンディーでの政治から身を引き、Saint-Andre-en-Gouffern・Notre-Dame de Persiegne のふたつのシトー会修道院を建立した[8]

1147年、息子のギーが第2回十字軍の道中で病死したことを受け、ギヨームは新たにポンテュー伯に任命された孫ジャン1世英語版に対して、遠征中に命を落としたギーの御霊のために財産をAbbeville修道院に返すように促したという[5]

1166年3月、ギヨームは孫のジャン伯と共に、アリエノール・ダキテーヌの指揮に対して対して反乱を起こした[9]。(アリエノールはイングランド王ヘンリー2世の王妃であり、ヘンリー王がウェールズ遠征を進める際に摂政としてノルマンディー統治を任されていた。)ギヨームとジャン伯の反乱は短命に終わり、ヘンリー王の脅しでアランソン城、ラ=ロシュ=マビル城を失う結果となった[9]。特に、ギヨームはイングランド・ノルマンディー両地域の領土を失い、ヘンリー王の影響力の向上を象徴する結果となった[9]

ギヨームは1171年に亡くなり、Notre-Dame de Persiegneに埋葬された[8]

家族

ギヨームは1115年頃にブルゴーニュ公ウード1世の娘エレーヌ・ド・ブルゴーニュと結婚し[10]、『ノルマンディー公爵たちの事績』(en:Gesta Normannorum Ducum)によれば3人の息子と2人の娘がいたという。

  • ギー2世英語版
    • ギヨームの後を継いでポンテュー伯を継承したが十字軍中に病死した。[10]
  • ジャン[10]
    • エリアス2世英語版の娘ベアトリクス(Beatrix d'Anjou)と結婚した[11]
  • クレマンス
    • ゴーティエ・ド・マイエンヌの息子Juhelと1189年ごろに結婚[10]
  • アデル英語版
    • 第3代サリー伯ギヨーム・ド・ワーレン英語版と結婚した [10]。その後、初代ソールズベリー伯パトリック英語版と再婚した。
  • フィリッパ

注釈

  1. ^ 当時の歴史家オルデリック・ヴィターリス英語版、当時のノルマンディーの修道僧ロベール・ド・トリニー英語版は両名とも、ギヨームの渾名'Talvas'について言及しているが、ギヨームは勅許状などにこの渾名を記していたとは知られていない([G. E. Cokayne, The Complete Peerage, Vol. XI (The St. Catherine Press, London, 1949) p. 697 n. (a)])。ただし、聖ミカエルの修道僧たちはギヨームのことをWillelmus Tallevat comes Pontivi.と認識していたという。(Calendar of Documents Preserved in France, ed. J. Horace Round (Eyre and Spottiswoode, 1899), no. 737])

脚注

  1. ^ Thompson 1994, p. 170.
  2. ^ a b c d e Cokayne 1949, p. 697.
  3. ^ Keats-Rohan 2002, p. 310.
  4. ^ Cokayne 1949, p. 693-694.
  5. ^ a b c Thompson 1994, p. 173.
  6. ^ Thompson 1994, p. 174.
  7. ^ a b Thompson 1994, p. 176.
  8. ^ a b Thompson 1994, p. 177.
  9. ^ a b c Hosler 2007, p. 61.
  10. ^ a b c d e Tanner 2004, p. 295.
  11. ^ Thompson 2009, p. 6.

出典

  • Cokayne, G. E. (1949). The Complete Peerage. XI. The St. Catherine Press 
  • Hosler, John D. (2007). Henry II: A Medieval Soldier at War, 1147-1189. Brill 
  • Keats-Rohan, K.S.B. (2002). Domesday Descendants: A Prosopography of Persons Occurring in English Documents 1066-1166. II Pipe Rolls to Cartae Baronum. Boydell & Brewer 
  • Tanner, Heather (2004). Families, Friends and Allies: Boulogne and Politics in Northern France and England, c.879-1160. Brill 
  • Thompson, Kathleen (1994). “William Talvas, Count of Ponthieu, and the Politics of the Anglo-Norman Realm”. England and Normandy in the Middle Ages. Hambledon Press 
  • Thompson, Kathleen (2009). Power and Border Lordship in Medieval France: The County of the Perche, 1000-1226. The Boydell Press 

参考文献

  • The Gesta Normannorum Ducum of William of Jumièges, Orderic Vitalis, and Robert of Torigni, edited and translated by Elisabeth M. C. Van Houts, Clarendon Press, Oxford, 1995.



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