ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/04 03:30 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス Ludwig Philipp von Thurn und Taxis |
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ルートヴィヒ・フィリップと妻のエリザベート
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出生 | 1901年2月2日 レーゲンスブルク |
死去 | 1933年4月22日(32歳没) ニーダーアイヒバッハ、ニーダーアイヒバッハ城 |
配偶者 | エリザベート・ド・リュクサンブール |
子女 | アンゼルム イニガ |
家名 | トゥルン・ウント・タクシス家 |
父親 | トゥルン・ウント・タクシス侯アルベルト |
母親 | マルガレーテ・クレメンティーネ・フォン・エスターライヒ |
ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス(Ludwig Philipp Prinz von Thurn und Taxis)またはルイ・フィリップ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス(Louis-Philippe Prinz von Thurn und Taxis[1], 1901年2月2日 - 1933年4月22日)は、ドイツの旧諸侯トゥルン・ウント・タクシス家の侯子。全名はルートヴィヒ・フィリップ・マリア・フリードリヒ・ヨーゼフ・マクシミリアン・アントニウス・イグナティウス・ラモラル(Ludwig Philipp Maria Friedrich Joseph Maximilian Antonius Ignatius Lamoral Prinz von Thurn und Taxis)。
生涯
トゥルン・ウント・タクシス侯アルベルトとその妻でオーストリア大公ヨーゼフ・カールの娘であるマルガレーテ・クレメンティーネの間の第4子、四男として生まれた[2][3]。ヴュルツブルク大学で法学を学んでいる。1922年11月14日にホーエンブルク(ドイツ領バイエルン州オーバープファルツ行政管区アンベルク=ズルツバッハ郡)において、ルクセンブルク大公ギヨーム4世の娘エリザベートと結婚し、間に1男1女の2人の子女をもうけた。
1925年、ニーダーアイヒバッハ城(バイエルン州ニーダーバイエルン行政管区ランツフート郡ニーダーアイヒバッハ)を購入して居城とした。1933年にこの城において32歳で死去した。息子が第二次世界大戦に従軍中に死去したため、城は娘を通じてウラッハ公爵家に相続された。
子女
- アンゼルム・アルベルト・ルートヴィヒ・マリア・ラモラル(1924年 - 1944年)
- イニガ・アンナ・マルガレーテ・ヴィルヘルミーネ・ルイーザ(1925年 - 2008年) - 1948年、ウラッハ侯エーバーハルトと結婚
脚注
- ^ Dallmeier/Schad: Das fürstliche Haus Thurn und Taxis. Pustet Regensburg 1996
- ^ Darryl Lundy (2005年6月23日). “Ludwig Philipp Prinz von Thurn und Taxis”. thePeerage.com. 2009年7月15日閲覧。
- ^ Paul Theroff. “THURN und TAXIS”. Paul Theroff's Royal Genealogy Site. 2009年7月15日閲覧。
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