キュラソー“ビザ”
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 20:49 UTC 版)
「ゾラフ・バルハフティク」の記事における「キュラソー“ビザ”」の解説
詳細は「杉原千畝#「命のビザ」」を参照 しかし、戦火の拡大でトルコの国境も閉鎖され、ルートは使えなくなっていた。残すルートはソ連経由で日本に渡り、そこから他国へ向かう方法であったが、日本への通過ビザの所得は最終目的地の明示が条件であった。バルハフティクらはオランダのキュラソー、スリナムの入国にビザが不要である事を知り、やはり閉鎖直前であったオランダ領事館にかけ合い、当時の領事ヤン・ズヴァルテンディクに難民の旅券に「スリナム、キュラソーは入国ビザ不要」との証明をビザのような形で書いてもらい、それを元に日本の領事館に通過ビザの申請を行った。当時の日本のカウナス領事代理、杉原千畝はこのキュラソー“ビザ”なる証明書に意味がない事に気付いてたが、ユダヤ難民の窮状を知っていた彼は、通過ビザの発行を行った。杉原は領事館が閉鎖になるまで不眠不休でビザを書き続け、結果多数のユダヤ人が日本に逃れる事が出来た。
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