カレ・アクテの建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/11 06:34 UTC 版)
「ドゥケティオス」の記事における「カレ・アクテの建設」の解説
しかしながら、ドゥケティオスはシケリアに戻り、ディオドロスによると、おそらくは神託を受けて紀元前446年にカレ・アクテ(現在のメッシーナ県カロニーア)を建設した。都市にはシケル人とコリントス人が入植した。紀元前440年にドゥケティオスは病死した。 この伝統的な説は、しかしながら、全く疑問が無い訳ではない。ディオドロスは別の説として、ドゥケティオスはその死亡年と同じ紀元前440年にケレ・アクテに入植したと述べている。この説では都市の建設年は不明である。加えて、カローニアのヘレニズム期およびローマ時代の遺跡の最近の発掘から、紀元前5世紀の遺物は僅かであり、紀元前5世紀始めにはシケル人の入植が行われていたことが判明している。おそらくは、ドゥケティオスは恒久的な植民都市が建設される前に死亡したと思われる。彼の死後、ドゥケティオスがシケリアに戻ってから作られたシュラクサイとシケル人の協調関係は崩れ去った。ドゥケティオスの死後直ぐにシケル人はシュラクサイに反乱したが、シケル連合は崩壊しパリケは略奪されて住民は奴隷として売られた。 一部の学者は、ドゥケティオスはシュラクサイの同意無しにシケリアに戻ったとの仮説を述べているが、これは殆ど不可能である。コリントスへの追放を終わらせるためにはシュラクサイの承諾が必要であり、ディオドロスによるとカレ・アクテにはコリントス人も入植している。シュラクサイはおそらくシケル人の潜在的敵対心を拡大させないためにも、シケリア北部に、シケル-ギリシア同盟都市を建設することに興味を持っていたと推定される。
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