オーバイとは? わかりやすく解説

オボイ

(オーバイ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/22 14:12 UTC 版)

オボイ

オボイ満州語ᠣᠪᠣᡞラテン文字転写:Oboi、漢字:鰲拝1610年頃 - 1669年)は、初の重臣・武人。オーバイとも。満洲鑲黄旗の出身。姓はグワルギャ(瓜爾佳)氏(Gūwalgiya hala)。伯父は太祖ヌルハチの腹心として活躍したフュンドン(fiongdon、費英東)。子はナムフ(納穆福)。

略歴

太宗ホンタイジの時代から対戦争で軍功を挙げる。1643年に太宗死去に伴い、後継をめぐって長男の粛親王ホーゲと太宗の弟の睿親王ドルゴンを推す勢力が牽制し合ったが、オボイはソニンとともに正黄旗・鑲黄旗の兵を背景として、ホーゲの弟である6歳のフリン(順治帝)の擁立に尽力した。順治帝が即位し、摂政としてドルゴンが補佐する体制が確立した。

1644年李自成によって明が滅亡すると、明清境界にあった山海関の守将の呉三桂が投降した。これを受け、ドルゴン率いる皇帝直属軍が入関、南下して李自成軍を撃破した。オボイは英親王アジゲの軍に従い、李自成・張献忠の軍を破り、遵義・茂州などを落とした。順治帝は北京に入城し、中華皇帝として中国本土の支配を開始するが、実際にはドルゴンが権勢を極め、1648年には皇父摂政王と称されるなど、独裁体制を築いていった。しかし1650年にドルゴンは狩猟中に急死し、以後は順治帝が親政を行った。オボイはそれまでの軍功から議政大臣に任命され、二等公を授けられ、後に領侍衛内大臣・少傅兼太子太傅となるなど、順治帝の腹心として地位を高めた。

順治18年(1661年)、順治帝は天然痘により24歳で急死した。8歳の玄燁(康熙帝)が即位し、遺詔によりソニン、オボイ、スクサハエビルンの4人が輔政大臣に任ぜられ、幼い康熙帝を補佐することになった。幼い頃ドルゴンの権勢に圧倒されていた順治帝が、自らの後継者康熙帝に同様の苦難を受けることのないように、権力を分散させ4人を牽制させたものと見られる。しかし、4人の輔政大臣は互いの利権を巡って相争うことになる。特にオボイとスクサハは折り合いが悪く、老年のソニンがかろうじて2人を抑えた。

康熙6年(1667年)にソニンが死去すると、オボイの勢力が他を圧倒するようになる。身の危険を感じたスクサハは「先帝の陵墓を守って余生を送りたい」と官を辞そうとするが、オボイは逆に24箇条もの罪状を讒言し、スクサハの一族を処刑に追い込んだ。残るエビルンはオボイに追従し、一等公に昇格したオボイの専制が確立され、順治帝の遺詔は意味を失うこととなった。

しかし、少年皇帝康熙帝はオボイの専横を憎み、ひそかに親政を企てるようになる。康熙帝は年少の側近と日々ブフ(モンゴル相撲)に興じて、表向き政治に無関心を装うことでオボイの油断を誘った。康熙8年5月3日(1669年6月1日)、皇帝たちのブフを視察に訪れたオボイは、突然取り押さえられ、逮捕された。同月26日、30箇条に及ぶ罪状を宣告され、オボイは一族郎党もろとも死罪となったが、康熙帝はかつての軍功に鑑みてオボイのみ終身刑とした[1]。こうして権臣オボイを失脚させた康熙帝は皇帝親政を開始し、61年の治世で清朝の黄金期を築くことになる。一方、オボイは釈放されることなく、同年のうちに獄死した。

康熙52年(1713年)、かつての功績によってオボイの罪は許された。雍正帝が即位すると再び一等公を追贈され、超武公の称号を贈られるが、乾隆帝の時代になると改めて一等男に落とされ、オボイの子孫は世襲を許された。

伝記史料

参考文献

脚注・出典

  1. ^ 清史稿』本紀六 康熙八年五月乙未条、同庚申条

オーバイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 14:18 UTC 版)

鹿鼎記」の記事における「オーバイ」の解説

ホンタイジのころからの清に仕え軍人文字の獄関与していたこともあり、漢民族からは熱烈に嫌われている。

※この「オーバイ」の解説は、「鹿鼎記」の解説の一部です。
「オーバイ」を含む「鹿鼎記」の記事については、「鹿鼎記」の概要を参照ください。

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